紅白歌合戦での美空ひばりAI再現

 2019年12月31日のNHK紅白歌合戦で美空ひばりがAIで再現されて「新曲」を披露したそうで。

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000706.000019470.html

 で、紅白序盤のほうで「AI歌唱」として美空ひばりが再現される製作過程の紹介VTRが流れていたんだけど、まず思ったのが「美空ひばりは金儲けツールなんだな」といううことだった。あとは「死んで何十年も経ってなおこんな形でいいように利用されてしまうんだな」と。

 そして、天童よしみのインタビューとか、会議室で厳かに作詞する秋元康の姿とか、 そういった絵面がザ・悪趣味グロテスクバラエティショーを強化していて、NHK性格悪いな、よりによってこれを紅白の時間帯にお茶の間に投げ込んでくるのかと最近のテレビショーギョーカイの進歩に唸らされた年末であった。

 ただまあ、それ言い出したら例えば「織田信長の再現肉声」もグロテスクになる筈なんだがそうは思わないよなあ。

「生きる意味のない命」という「正しい」考え

「 相模原事件を考える~公判を前に 被告と面会した牧師の奥田さん いま伝えるべき言葉とは」https://mainichi.jp/articles/20191213/k00/00m/040/313000c

 2016年7月26日、相模原市の「津久井やまゆり園」で19人を殺害し26人を負傷させた植松聖被告。その植松被告と接見した牧師、奥田知志のインタビュー記事。

 記事の中で「役に立つ人間になりたい」「他人に迷惑をかけてはいけない」「自分で自分のことができないうやつは死ね」「生きる意味がない命」「生かしておく余裕はこの国にない」といった言葉が出てくる。

 実に「正しい」考え方のオンパレードで、この記事を読んでいると、いつ自分は「正しい」人たちに殺されるのか、そして殺されても同情すらされることなくむしろ「あんなの死んで当たり前だろ」という世間様社会様の「正しい」コメントをいただくことになるのか、と暗澹たる気分になる。

 そして、別の事件のことを思い出す。2019年6月1日に元農水事務次官・熊沢英昭容疑者が息子を刺殺した事件。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/65763

 以前からそんな風潮はあったけど、最近はますます露骨になっている。私自身はいつ「生きる意味がない命」認定されて殺されるのだろう、という恐怖。

 因みに、「殺される」ってのは刺殺なんて直截的で分かりやすい方法ではなく、もっと巧妙な「正しい」方法で殺される、ってことね。

 そして、「自分が”生きる意味がない命”認定されるわけないじゃない」というファンタジーを無邪気に信じ続けられる人たちがたくさんいるというホラー。

 私も一生ファンタジーの世界に生きていたかった。

「偏向やデマを流す」ことが正当化される場合とそうでない場合がある?

 マスコミが偏向報道をしたり時にデマを流したりすれば批判の声が上がる。それは当然のことだと思う。そして、インターネットにおいてはブログやSNSなどで、マスコミでない個人や団体が時に偏向した情報やデマを流す。そしてそれに対して批判の声が上がる。
 …と思っていたのだが、「ブログやSNSなどで、マスコミでない個人や団体が時に偏向した情報やデマを流す」ことに対して「情報の真偽は受け手が判断すればいい。インターネットは正しい情報しか流しちゃいけないの?」というようなご意見を目にした。
 「情報の真偽を受け手が判断することの重要さ」と「偏向やデマを流すことに対する批判」は別物なんだけれど、それをごっちゃにするテクニックを目の当たりにし感心させられたがそれはまた別の話。

 もちろんマスコミは「公器」であり、ネームバリューも(未だになんだかんだ言って)高い。ゆえにマスコミがいい加減なことをしてもらっちゃ困る。
 しかし、マスコミでない個人や団体がいい加減な情報を流布することに対して「情報の真偽は受け手が判断すればいい。インターネットは正しい情報しか流しちゃいけないの?」と言ってしまっていいのだろうか?

 ここからは自分の仮説になるのだが、「マスコミを叩くことありき」な人がこの手の発想に陥りがちなのではないか。あるいは「自分が気に食わない対象を叩くのに使えるデマや偏向」はオッケーだと考えているのではないか。

 マスコミでない個人や団体が流す情報に対して「情報の真偽は受け手が判断すればいい。インターネットは正しい情報しか流しちゃいけないの?」という発想を採用すると、マスコミが偏向やデマを流すことだって「マスコミが偏向やデマを流そうともそれは受け手が判断すればいいのではないですか?マスコミは正しい情報しか流しちゃいけないの?」ということにもなりかねない。私はそういった意見を採ることはできない。

謝罪になってない謝罪テクニック事例:穴見陽一議員の場合

 2018年6月15日の衆院厚生労働委員会において、参考人として招かれた人に「いい加減にしろ!」とヤジをとばした穴見陽一議員。

https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/judoukitsuen-yaji-anami

受動喫煙対策が議論された衆院厚生労働委員会で、6月15日、参考人として招かれたがん患者が意見を述べている最中に、自民党の穴見陽一議員が「いい加減にしろ!」とヤジを飛ばしていた。

 そして、穴見陽一議員は『「お詫び」と題したコメントを発表』。
https://www.sponichi.co.jp/society/news/2018/06/21/kiji/20180621s00042000143000c.html

「この度、去る6月15日に行われた衆議院厚生労働委員会において、参考人のご意見の際、私が『いい加減にしろ』といったヤジを飛ばしたという報道がありました。まずは参考人の方はもとより、ご関係の皆様に不快な思いを与えたとすれば、心からの反省と共に深くお詫び申し上げる次第でございます」と謝罪。
 「もちろん、参考人のご発言を妨害するような意図は全くなく、喫煙者を必要以上に差別すべきではないという思いでつぶいたものです」と釈明し「とはいえ、今後、十分に注意して参りたいと存じます。この度は誠に申し訳ありませんでした」と謝罪の言葉を繰り返した。
 穴見氏は大分1区選出で、ファミリーレストランを展開する「ジョイフル」代表取締役相談役。

 「ご関係の皆様に不快な思いを与えたとすれば、心からの反省と共に深くお詫び申し上げる次第」という教科書通りの様式美。典型的な「謝罪になっていない謝罪文」。穴見さんの言動は悪くないですよね。不快な思いをした側の問題ですものね。

 さて、それはそれとして、穴見陽一さんの「お詫び」を読みますと、穴見さんは以下のようなお考えをお持ちのようです。

  • 受動喫煙をしたくないという発言は「喫煙者を必要以上に差別す」る発言である
  • 必要であれば喫煙者を差別してもよい(必要な差別というものが存在する)
  • 参考人や傍聴者に聞こえるように「いい加減にしろ!」と「つぶやいた」(ヤジを飛ばしたのではない)

 わたくし学も教養もない頭の悪い人間ですので、さっぱり意味がわかりません。ただ、議員は自分の発言・言葉を軽視すべきではないと思います。

https://twitter.com/officeSugano/status/1010079802550677504

参考リンク:穴見陽一公式サイトのプロフィール


自分の発言の整合性って気にならないんだろうか

 「金持ちが金を使って経済を回すのが一番効率いい」という持論を展開。↓

 それに対する指摘。↓

 具体的な数字を挙げて「どっちのほうが金使ってますかね、、、」と持論を展開。↓

 その理屈で言うとこうなりますよね、というツッコミ。↓

 人間色々な主張をすることがあるわけだけど、自分の主張に対して自分で反例を探したり反論・ツッコミを試みておかしなところがないかを検証する作業というのは大事だと思う。そういうのって重要視されないのだろうか?
 「罵声を頂くんですが」という被害者ヅラテクニックより重要だと思うんですが…

「騒いでる意味がわからない」じゃダメでしょう。騒がないと。

 高度プロフェッショナル制度法案に関するやりとり。

 既に働かせ放題にされているのだから「騒がなきゃダメって言われても騒げないですよ、僕らはすでになっているんですから」という持論が展開されているのだが、なぜ「すでになっている」と「騒げない」のか。その考えに至った経緯を詳細に言語化すると色々なことがわかってくるのではないか?という感想を持った。すごく重要なポイントなのだと思う。

受験生に迷惑だろ!

 2012年1月の話。

http://togetter.com/li/241334

【大拡散】反原発の方達に本当にお願いなんだが、今日明日の脱原発世界会議に伴って行われる脱原発世界大行進。是非、静かにやって欲しい。今日はさあ、センター試日本番なんだよ。絶対に、絶対に受験会場は避けて欲しい。声は丘の上の大学にも届くよ。受験生へのビラ配りもだめだよ!

https://twitter.com/#!/disneycruise200/status/158055807089512449

センター入試の会場近くでデモをやっている、なんて言ってないんだよな。そういう場所を通るなら静かにやってね、って言っているんだよ。まあ、短い言葉で読み取れない人もいるかも知れんが。センター入試って大学だけじゃなくて色々なビル借りてやるからね。

 上記の発言で「脱原発世界大行進」と「センター試験」という、具体的なイベント名が出ていたので、これらについて調べてみた。

 まず、「脱原発世界大行進」なるイベントのデモ行進ルートは以下の通り。この時のデモ行進ルートは横浜市内。
http://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=204469348973862279411.0004b514604f3454a8a76&msa=0&ll=35.458363,139.637561&spn=0.033243,0.057678

 そして、センター試験の会場は大学入試センター公式サイトにて公表されている。2012年(平成24年)の試験場一覧は下記の通り(PDF注意)。神奈川県の試験場一覧は18ページに記載されている。
http://www.dnc.ac.jp/modules/file/index.php?page=visit&cid=76&lid=1014

 第三者の存在(この場合は「センター試験受験者」)を出して「この人達に迷惑がかかるだろ!」というテクニックを使うのもいいけど、まずは事実関係を確認して、そのテクニックが使えるかどうかを確認してからにしたほうがいいよね、という教訓。
 「そういう場所を通る」かどうか、「センター入試って大学だけじゃなくて色々なビル借りてやる」かどうかは公式に公開されている情報から簡単に調べることができるのだから。

衣替えで季節を実感するんですか

 最近あまり人前に出ないんで今でもこういう物言いがあるのか知らないけど、「衣替えで季節を実感するねえ」ってアレ、昔からすごく違和感がある。別にそういう発言自体はいいんだけど、あの手の言葉って「私は皮膚感覚で季節を実感できません」って言っているように聞こえてしまうんだ。

 以前は「何月何日から衣替え」ってのが毎年同じ日に決まっていて多くの人がそれに従っていたと記憶しているけど、最近は色々な事情で「何月何日」の部分も人によってまちまちになっているように見える。「何月何日の季節の変わり目としての衣替え」って認識が広く共有されていた時代も過去のものになるのかならないのか。

理不尽に対する耐性

 他人に向けて「理不尽に対する耐性」とかしたり顔で言うヤツに対しては骨の二、三本+目玉一つくらい潰してもいいと思う。それで恨み言を言い出したら「理不尽に対する耐性」が足りないということなので。
 他人には理不尽への耐性を要求するけど自分自身に対する理不尽は受け入れないと言うのなら、そいつは受けた躾や教育がなっていないので両親や小学校当時の担任を呼びつけていい。

年収○○円あれば全世界年収ランキングの上位××%に入る

http://blogpal.seesaa.net/article/88037108.html

参考までに述べておくけど、年収300万円でも、上位9.44%になる。

たぶん年収三百万円の人は、自分なんて、底辺クラスだと思っていると思う。日本という国でみれば、それは正しいかもしれないけれど、全世界的にみれば、とんでもない金持ちなわけ。これは現実なの。

日本がどれだけ金持ち国家かわかるよね、これで。そして日本人がどれだけ金持ちかも。底辺の労働者ですら、世界の上位10%なわけ。

そもそも、年収10万円でも、TOP 49.22%に入っちゃうの。これが世界の現実。

 上記のような物言いは一時期頻繁に目にした記憶があって、その当時から素朴に疑問なんだが「国や地域によって物価が違う」という「世界の現実」は私が思っているほどには浸透していないんだろうか。

 「国や地域によって物価が違う」という現実から目を逸らさないとやってられない情況があるのか、冒頭のようなことを吹き込んでそのように思いこませる/吹き込まれてそのように思いこむことを強いられている 人たちがいるのか。