世の中の治安がどんどん悪くなっています、というイメージを流布して、その後で警備会社や防犯ソリューションのCMを流す。警察の予算増強や、職質の強化のお題目を流す。異を唱える連中は治安の悪化を望んでいる犯罪者予備軍/危ない人、という印象づけも忘れない。
あるいは、スクランブル情報をおどろおどろしく流す。そしてその後でミサイル実験の成果を発表し、更なる予算増強を求める。これで国民の安全は守れます。ならず者国家の攻撃でかけがえのない人がいつ死ぬかわかりません。ミサイルはお高いですが国民一人あたりにすればたったの数百円!これに異を唱える人は日本が嫌いな人/反日勢力の手先/人命を何とも思わない人でなし、という印象づけも忘れない。
まあ、警察なり商売人なり自衛隊なりの立場の人がそういうことをするのは理解できる。自分が同じ立場なら同じようにするだろう。興味深いのは、彼らと直接的な利害関係もないのにあたかも彼らの出先機関のごとく彼らの広報を行い、異を唱えるヤツを叩いて廻る人たちがいる、ということだ(しかも無償で)。
そういう人たちが、彼らの主張に完全に同意しているというのなら理解できるのだが、見ていると実はそうでなくて、そういう人たちは彼らの主張を必死になって信じようとしているのではないか、と感じることがある。彼らをそこまで駆り立てるのはいったい何なのだろう?
警察なり自衛隊なりの(当然それ以外にもある)国家サービス業は、国民に奉仕するというお題目で存在している。で、現実にはどうかというと、ほどほどに奉仕するしほどほどに奉仕しない。特権的な立場にいる人にとっては非常に良く奉仕してくれるだろうし、もしかしたら逆特権的な人もいるかもしれない。現実問題として国家サービス業は全ての国民に等しくサービスを提供するものではないのだ、残念ながら。
そういった意味で、前述の「彼らの主張を必死になって信じようとしている」人たちにはある種の悲哀を感じずにはいられない。
別の見方もある。「必死になって信じようとしている人」は「国家なり政府なりを批判する人」が嫌いなあまり過剰に国家や政府に肩入れしてるんじゃないか。「国家なり政府なりを批判する人」が嫌いであることと、自分が国家や政府(のすること)を批判したり不満を持つことは別に矛盾はしないのだが、そうは考えられないのだろうか。所謂「敵の敵は味方」という考え方か。あまりまともな教養の持ち主には見えない。
少し話は変わる。うろ覚えであるが、森毅氏が自身のエッセイでこんな内容のことを話していた。
「戦争に負けた頃世間の大人達は、さかんに自分たちは政府にだまされていた、とわめきちらしていた。じゃあこれからはだまされないように気をつけよう、となるのかと思っていたら、今度は自分たちをだまさない政府を作ろう、なんてことを言い出すので呆れてしまった」
森氏の発言に出てくる「政府にだまされていた、とわめきちらしていた」「世間の大人達」が「彼らの主張を必死になって信じようとしている」人たちとダブって見えてしまう。