チャンバラ壁新聞編集部は世界最高峰デュアスロン96パワーマンゾーフィンゲンオフィシャルツアーのパンフレット内に奇妙な文書を発見した。以下にその内容を原文のまま示す。
パワーマンについて デュアスロンという、欧米では古くから、我が国では最近のスポーツとして人気の高い、自転車を使った競技です。マラソンと自転車競技を同時に行う競技で国内でも現在40レースを行うほどになっております。ランニング-自転車-ランニングを、一人の選手が競い合うという競技であり、その競技の世界最大、最高のレースシリーズがパワーマンデュアスロンシリーズです。このレースは、1989年スイスの経済社会で主要なメンバーであるアースリンジー(Dr_URS_LINSI)とブルーノインフェルド(BRUNO_INFELD)により設立されました。
1989:第一回デュアスロンZOFINGENマラソンと自転車競技は、ドイツ、スイスそして周辺国から集まった403名の競技者が3000名の見学者の見守られる中で行われた。
1990:大会は616名の競技者に増え、ディブ スコット(アイアンマン3年連続チャンピオン)がレース運営を指導し、トム クーニーが競技全体を管理することでレース自体の格が上がり世界各国からデュワスリートのケニー・スーザー(カリフォルニア)は一躍、世界的に有名なアスリートとなった。この年のギャラエリーは約9000名。
1991:5万ドルの賞金と世界一強いという称号を求め多くのアスリートがこのレースに参加しに世界中からきた。アイアンマントライアスロンの有名な選手、スコット・モリーナ、スコット・ティンリー、マイク・ピッグ、ポーラー・ニューディーフレザー、そしてエリン・ベーカー、のエリートのトライアスリートや、デュアスリートにより行なわれ、この年のレースは白熱し興奮を呼び、このレースが、もはや田舎のデュアスロンのレースで無いことを12000名の観客はしることになった。この試合の模様をユーロスポーツは放映し、全世界のスポーツ界はこのスイスの田舎町ZOFINGENを注目し始めた。
1992:大会名はパワーマンを変わり23カ国から864名の競技者で争われた。マーク アレン の参加により1992年のデュアスロン中最もレベルの高いレースとなった。12万ドルの賞金額は、ハワイ アイアンマンの次に位置し新しくなったスタジアムには40000人もの観客が押し寄せこのレースの模様は世界130カ国に5つの異なった言葉で放映された。
1993:パワーマンは世界最高の賞金額と世界最強を決定するレースとしての位置づけを明確にした。オーストラリアからアフリカのジンバブエまでの25カ国から550名の競技者がZAOFINGENを訪れレースに参加し、その模様は世界100社以上ものテレビ局により放映され、アメリカの主要なケーブルテレビネットワーク、カナダのTSNヨーロッパのユーロスポーツに放映され、新しいスポーツの幕開けとして1994年度世界12カ国においてZOFINGENの予選レースが開催され、1995年度のジャパンはアジアの予餞会として1994年大分県・国東にて開催。日本人選手300名が参加。
1996年レースへのクオリティーファイレースは、95/96年のパワーマンシリーズとして、世界11カ国12カ所で開催されており、日本では12月17日(日)にパワーマン第9戦として東京都立川市昭和記念公園にて行われました。
(抜粋は以上)
一見したところ奇妙な文書には見えないかもしれないが、ところどころの文法、文字使いのおかしさからして、日本人が書いた文書ではないと見られる。レースの観戦者の表現が「3000名の見学者」、「ギャラエリー(ギャラリー)は約9000名」、「12000名の観客」と、人数が増えていくにつれ変わっていくのは何とも奇妙だ。執筆者の何か特別な意図でもあるのだろうか。