鈴木幸一さんは「口にしようものなら、徹底批判されそうである」と自覚していた

重要な仕事、「家事」を忘れている   経営者ブログ 鈴木幸一 IIJ会長

 2021年3月2日の2:00に公開され、その日の15:38に「(一部不適切な表現があり、筆者の承諾を得て当該部分を削除しました)」という、IIJ会長鈴木幸一さんの文章。削除された部分は以下のとおり。

男女差別をなくすには

わが身を振り返ると、毎日、毎日、たくさんの時間を費やして家事に集中していた時代の女性には、すごみがあると、母親の料理や洗濯などを思い出す。友人は「そんなもんだよ。男の仕事はほとんどが、ある程度の知識があると、なんとかなる。形はともかく、その核心まで、考え抜いた結果というのは、少ないはず」と言う。わが国も、徹底して男女差別をなくそうと、日々、そんな話がメディアに報道されている。東京都では、今後、2~3年間で、あらゆる審議会の男女比率を6対4にするという。つまり審議会の委員の4割は女性になるという方針が出されたようだ。それも変な話である。男女を問わず、にわか知識で言葉を挿むような審議会の委員に指名されるより、女性が昔ながらの主婦業を徹底して追求した方が、難しい仕事だし、人間としての価値も高いし、日本の将来にとっても、はるかに重要なことではないかと、そんなことを思うのだが、口にしようものなら、徹底批判されそうである。本当の男女差別をなくそうということであれば、目先の形だけを追求していても仕方がない気もするのだが。

 味わい深いなと思ったのは引用部後半にある、

「男女を問わず、にわか知識で言葉を挿むような審議会の委員に指名されるより、」

「女性が昔ながらの主婦業を徹底して追求した方が、難しい仕事だし、人間としての価値も高いし、日本の将来にとっても、はるかに重要なことではないかと、」

が対比されている点。「男女を問わず」で始まっているのに対比される部分の書き出しは「女性が」となっており、そこで敢えて男性を除外したのは何か理由があるのだろうか?と素朴な疑問を持った。

 例えばこの部分、「男女が昔ながらの主婦業を徹底して追求した方が、難しい仕事だし、人間としての価値も高いし、日本の将来にとっても、はるかに重要なことではないかと、」と書けば、文章の構成上も「男女差別をなくすには」という小見出し上も自然な流れになるし、加えて言えばここまで批判もされなかったんじゃないか。

 文章の構成や流れを不自然なものにまでして、わざわざ主婦業の話から男性を除外し、ご自身も認識していたとおり「徹底批判されそう」な文章を書いた鈴木幸一さん、一体何をお考えになられていたのだろうか。

 鈴木幸一さんの文章についてのツッコミの数々を以下に紹介する。

 


https://www.nikkei.com/article/DGXZQODZ010AQ0R00C21A3000000/?unlock=1

重要な仕事、「家事」を忘れている

経営者ブログ 鈴木幸一 IIJ会長 2021年3月2日 2:00 [有料会員限定]

「寒いから、ねぎまでも食べに行こうか」「ねぎまってどんな料理ですか」「君は東京生まれだろう。関西人が知らないのはわかるけれど」「でも、食べたことがありません」

「ねぎま」がなじみのない料理に
若くもない40歳過ぎの社員を誘ったら、「ねぎま」を知らなかった。「ねぎま」、「ねぎま鍋」と言った方がわかりやすいかもしれないのだが、「葱(ねぎ)」と「鮪(まぐろ)」を鍋にする冬の家庭料理である。鮪の脂が汁に溶けて、その汁がしみ込んだ葱と食べると、冬の寒さに冷え込んだ体が温まる。子供の頃、底冷えのする夜など、家でよく食べていた料理である。鮪の代わりに、寒鰤(ぶり)と煮込んでもおいしいのだが、今どきの人には、なじみがなくなってしまった料理である。家庭料理の種類も、年々、少なくなっているようだ。

私が育った家庭は、両親とも、明治生まれだった。母親は一日の大半を、台所に張り付いていた。夜明け前には起きて、古くからあった竈(かまど)でご飯を炊く、ご飯を炊きながら朝食の支度をし、家族の食事が終わると、洗い物をする。家ががらんと静かになると、ひとりで食事をする。

台所の母を眺めていた
洗濯機もない時代、それから掃除、洗濯等々、家事に追われ、昼は手のかからない、簡単な食事で済ませる。昼の食事の後、わずかな時間だけが休息のようだった。午後も3時ごろになれば、夕飯の材料の買い物に行き、家に戻ると、休む間もなく、料理を始める。終日、家事に追われ続けていた。ひとりだけ、年の離れた幼い子供だった私は、台所で働きづめの母親の料理づくりを眺めているのが好きだったのか、大人になると、結構、昔の料理について、調理の仕方を知っていることに気がついたのだが、料理はめったにしない。

母の葬儀に行けず
高校を卒業すると、すぐに育った家を離れてしまい、母親の昔ながらの家庭料理を口にすることは稀(まれ)になってしまった。働き者の母親だったが、家族が不在、家に用事がなかった折や、夫婦げんかの後など、映画や芝居見物、宝塚から音楽会まで、なにかと出歩くのが好きだったようだ。明治生まれの女性は、少しばかり、江戸期の享楽的な遺伝子が残っていたのかもしれない。幼かった私の手を引いて、子供のためとか、そんな配慮は一切なく、自分が好きなものを見るために、家に残しておけない私の手を引いて、気晴らしの外出をしていたのである。帰りは、いつもそば屋で食事をしてから、家に戻っていた記憶がある。その母親が亡くなったのは、IIJが創業間もないころで、私は海外出張中。その訃報は、ホテルにかかった電話で聞いたのだが、日程を変えるわけにもいかず、葬儀などには行けなかった。海外出張の前、「だいぶ弱っている」と聞き、病院で伏せる母を見舞ったのだが、負けず嫌いで、勝ち気な言葉は聞けたのだが、あまりに小さくなってしまった身体に、驚くばかりだった。

「私も、すぐに終わりそう。もうおいしいものを、つくってあげることができませんよ」、最後に聞いた言葉だった。年齢を重ねる度に、主婦という仕事、料理に始まって、あらゆる家事を磨き上げることほど、難しく、大変な仕事はないと思うようになった。家事は、男が到達できない人格をつくることも確かである。本当に、子供を育て、未来をつくることができるのは、そんな女性かもしれないと、思うこともあるのだが、なにごとも一般化する話でもない。

高齢者になって、余計な物を増やしてはいけない、そう思ってはいるのだが、つい、書店を徘徊(はいかい)しては、新しい本を買い続けてしまう。書物とCDに埋もれた生活をしながら、部屋の空間を圧迫し続けている書物が増えていくのを、他人事のように、ぼうぜんと眺めている。新型コロナウイルスによって、飲み屋で過ごす時間が減り、遅くとも、8時過ぎには家にいるような生活になると、9時前に就寝というわけにもいかず、本を読む時間が長くなるばかりなのだが、読む本と言えば、何度となく繰り返し読んだ本か、長いこと、本棚に眠っていた書物ばかりで、毎月のように購入しては、部屋の空間を圧迫する書物を手に取ることは稀である。

書物からの引用が多くなる
「年齢を重ねるに従って、頭が空っぽになっていくのか、自らの脳で考えることは少なくて、いつも書物のお世話になっていると、思考停止状態になってしまう気がする」。たまに会う友人に、ぶつくさ言うと、「ま、そんなもんだよ。自分が考えたような気がするのも、ほとんどが書物からの借り物で、たくさん混じってしまうと、自分で考えたような気になるだけだ。独創的な考えなど、よほど、才能に溢(あふ)れた人くらい、そんなものだな」。なにか書こうとすると、似たような言葉をどこかで読んだ記憶がある。その言葉を、なんとか探し当てると、書物から引用してしまう。その方が、自分で書くよりも明晰(めいせき)な言葉になっている。そんなことで、最近はブログを書いていると、つい、書物からの引用文が多くなってしまうようだ。

男女差別をなくすには
わが身を振り返ると、毎日、毎日、たくさんの時間を費やして家事に集中していた時代の女性には、すごみがあると、母親の料理や洗濯などを思い出す。友人は「そんなもんだよ。男の仕事はほとんどが、ある程度の知識があると、なんとかなる。形はともかく、その核心まで、考え抜いた結果というのは、少ないはず」と言う。わが国も、徹底して男女差別をなくそうと、日々、そんな話がメディアに報道されている。東京都では、今後、2~3年間で、あらゆる審議会の男女比率を6対4にするという。つまり審議会の委員の4割は女性になるという方針が出されたようだ。それも変な話である。男女を問わず、にわか知識で言葉を挿むような審議会の委員に指名されるより、女性が昔ながらの主婦業を徹底して追求した方が、難しい仕事だし、人間としての価値も高いし、日本の将来にとっても、はるかに重要なことではないかと、そんなことを思うのだが、口にしようものなら、徹底批判されそうである。本当の男女差別をなくそうということであれば、目先の形だけを追求していても仕方がない気もするのだが。

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