制度やシステムが個人の行動や選択肢を制限する

 子供の頃は主に学校で「努力して結果を出せば自分の選択肢が広がり自分の思うような道を進める」みたいなことを言われて育った。まあその言葉の怪しさはだんだんとわかってくるものだが、自分の場合、それを身をもって体験したのは高校受験の時だった。

 全国的に見れば少数だが、ある地域には「県内一の進学校が別学校」という環境が存在する。これが何を意味するかというと、「一定以上のレベルの大学に行きたいと思ったら共学校という環境を諦めざるをえない」ということだ。まあ小学生の頃から薄々と感づいてはいたが、それが切実なものになった時にはなかなか辛かった。もちろん、県内二の進学校に行って個人の頑張りで…という選択肢もあったのだが、そんな選択肢を選ぶのは少なくとも自分の周りには皆無であったし、過去の進学実績から見てその選択はなかなかチャレンジブルであったし、そもそも自分の周りにはそういう不満を持っているのがいなかった。

 結果的に「自分の意志で」「自分で決めて」別学校に行ってそこでぶーたれることになるのであるが、「自己決定」というものの欺瞞・胡散臭さを15歳そこそこで思い知らされて何とも言えない気分になるとともに、結局自分もその制度を維持するのに手を貸した一人だったのだなと気づいて何ともいえない気分になった。あと自分の部屋の障子の枠がボロボロになり部屋の壁には穴が空き、「努力して結果を出した報いがこれかよ、生まれた場所が違うだけでこの有様か。俺なにか悪いコトしたか?」とブツブツブツブツつぶやく生活を送ることになった。

 つまり、「表向きには選択肢がないことはないが、実質的な選択肢は非常に限られている、そしてそういう状況は再帰的に強化されている」ということだ。社会の制度・システムは時として非常に巧妙にできているということだ。こんなこと社会に出てから気づけばいいことだろ15歳くらいで気づくことじゃないだろ、と思ったことを覚えている。

 おかげで性格は歪み、周りからは呆れられたり今でもそれを引きずっていたりするのだが、ただ、こういう経緯をたどったおかげで「頑張れば頑張っただけ報われる(=おまえが報われないのはおまえの努力が足りないからだ。なんでもかんでも環境のせいにするな甘ったれるな!)」という、制度・システムの巧妙さから目を背けさせるような言説に対して疑問を持てるようになったわけだが………いや、疑問なんか持たないほうが幸福だったよな。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

four × 2 =