自分の時間のつぶし方を自分でなんとかできないのって社会人として辛いと思う

セミリタイアしてヒマじゃないですか?と聞かれると質問者がかわいそうになる

仕事の有無や趣味の有無に関係無く、つまらない考え方の人はどんな人生を選んでもヒマでつまらない人生をおくるでしょう。セミリタイアする事とヒマで困る事の直接の関係はありません。

 自分の時間のつぶし方さえ自分でなんとかできないなんて、生きる力の決定的な欠如なのではないか。人間能力の有無はあるからそれができないのはいいにしても、そのことを得意気に話せる人というのは昔から理解できない。

両方言えない事情が何かあるんだろうか

https://twitter.com/mollichane/status/960506769012174863

 この手の物言いで昔から不思議に思うことがある。
 上で引用したツイートに合わせて言うなら、だったら「安倍政権にも言いたい事」と「野党批判」両方言えばいいだけのことなのにどうして「野党批判」しか言わないのだろう?何かそうしたい事情・そうしなければいけない事情でもあるんだろうか??
 政権がとか野党がとかの話以外にも、この手の物言い関しては以前から素朴に疑問に思っている。

※2018/5/28追記:

 思っていることが複数あるなら複数言えばいいのに、どちらか片方のことしか言わないのは「ホント気持ち悪い」ですね。

被災地支援です!

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 誰だ!「東京五輪招致のために被災地をダシにして招致決定までは復興五輪!復興五輪!と連呼していた人たちを思い出した。本当に天才だよなあいつら。」とか言ってるのは!いい加減にしないか!!!!!!!

「騒いでる意味がわからない」じゃダメでしょう。騒がないと。

 高度プロフェッショナル制度法案に関するやりとり。

 既に働かせ放題にされているのだから「騒がなきゃダメって言われても騒げないですよ、僕らはすでになっているんですから」という持論が展開されているのだが、なぜ「すでになっている」と「騒げない」のか。その考えに至った経緯を詳細に言語化すると色々なことがわかってくるのではないか?という感想を持った。すごく重要なポイントなのだと思う。

21周年

 ここに書いたこともそうだし、それ以外のところで書いたことやHDD内に書いたきり放置したものも含め、昔書いた自分の文章をたまに読むことがある。こいつ物を知らないし頭悪いなと思うんだけど、今の自分よりもはるかに文章が面白いな、と思うことが多い。

 昔の自分が何を考えて文章を書いたのか、覚えていることもあるしさっぱり覚えていないこともある。で、恥ずかしくなるようなものもあるのだけど、それも含めて、頭の良し悪しや面白い面白くないにかかわらず、とにかく文章を書いて残したほうがいいと思う。人に見せる見せないは別に考えればいい。自分自身を後で振り返ることができるか、というのは大事だと思う。昔はあまりそういうことを考えなかったけど、ここ何年かはそんな風に考えている。

 自分のことは自分が一番よくわかっている、と思いがちなんだけどそうとも限らないし、もしかして自分は自分のことを何もわかっていない、自分の状況をモニタリングすらできていない、のかもしれないのですよ。
 それでもいい時期もあるんだろうけど、そういったことに無頓着なままだと自分にとってよろしくない、そんな時期もあるんだろう。自分自身の状況をきちんとモニタリングする。それを他人に説明できるよう言語化できるようにする。それか自分にとって必要なことなんだろうなと思いつつ、たまにはここに何か書いていく。

20周年

 本当に20年経ってしまったのか、でも経ったんだよなあ。というのが正直なところ。なんか遠くに来てしまったなあ。
 20年前は今(つまり20年後)のことなんて想像できなかった。極端な話、生きているのかどうかすら想像できなかった。でも現実として今も自分はここにいる。
 20年前は、他人がそれを読むかどうかなんてことは関係なく、とにかく言いたいこと書きたいことがあってホームページを始めたことを覚えている。で、時間が経って一通り言いたいこと書きたいことはもう吐き出しつくしたのかなと思ったし実際そんな感じだった。
 ただ、今はそれとはまた別に、言いたいことというか、言語化したい・しなきゃいけないことがあると思っている。昔とは違った種類の、自分の考えていることを他人に伝わるように言語化する欲求や必要性があることは実感している。
 自分は自分のことなんてわかっていて当たり前だろと思っていたけど、全然そうじゃないと気づいたのは割と最近なので、まだここはしばらく続きます。

いろいろな生産の形

#372 アイデンティティとは、いま、そこにある捨てられずに残ってしまう何か 石川 竜一さん(写真家)

 MAMMO.TVにあったインタビュー記事。

たまたま知り合った精神科の医師と話す機会がありました。そこで話題になったのが、「治療とは結局は何なのか?」でした。

精神病院の治療とは、生きづらさを抱えて患者と呼ばれるようになった人が社会でやっていける状態に持っていくことです。そこで僕が考えたのは、「社会」とは資本主義とか生産性のことです。治療は、社会からこぼれた人を入れ直して「生産性をあげましょう」と言うようなものです。

でも本当にそうなのか。少し考えたら普通にわかるのは、別にそうである必要はないことです。もっと別の生産の形があることの方がおもしろいんじゃないか。いまの社会に適応している人だけでは行き詰まっているのだから、生きづらい人をそこに引き入れても仕方ない。

いまの多数派の人で作られている「社会」や「生産性」ではなく、もっといろんな形であり得るはず。というのも一人ひとりが違うわけだから、そこまでバラしてみたら、全部「それもありだね」で並べられるんじゃないか。そちらの方がおもしろいと思います。

 なるほどと思いつつも、「いまの社会に適応している人だけでは行き詰まっているのだから、生きづらい人をそこに引き入れても仕方ない。」という部分には引っかかった。「いまの社会に適応している人だけでは行き詰まっている」からこそ、「生きづらい人」を引き入れることも大事なのではないか、と。ただ、こういう私の考え方は「社会(石川氏の言うところの「資本主義とか生産性」)」じみた考え方なのだろうなあとも思う。
 しかし、「別にそうである必要はないことです。もっと別の生産の形があることの方がおもしろいんじゃないか。」というのも確かにその通りで、色々な形があったほうがおもしろいし、より生きやすいだろうなあと思う。

19周年

 今後の人生どうなるのかということを最近急に考えるようになった。どうなるんでしょうね。
 さて、ここで書きたいという思いが湧き上がらなくなってきたり、たまに湧き上がってもまあいいかと思うことが増えてきた。脳の働きがどんどん弱っているのだろうか。メモや記録程度のことでもいいからとにかく書いたほうがいいのだろうな。文章力はどんどん落ちている。とにかく書くということは重要なんですよ。誰よりも自分自身にとって。

18周年

 何もしなくても時間は過ぎるとはいえ、18年経ったらしいということに驚いている。18年前は何を考えていたんだっけ。何か色々書きたいことがたくさんあったような記憶がある。

 たまにはここも更新して、読んだ本のこととか書きたいんだけどなかなかできない。まあ、あまり焦らずにやっていきます。

17周年

 この一年間はまともな更新を殆どしてないなあと気づいた。
 そういえば、「”マスゴミ“に騙される構図そのままに”ネットの真実“に自ら進んで騙されにいく様子」をしばしば見かけることになるとは17年前は予想してなかった。