私は人間性を高めるために本を読みます(笑)

 「人間性を高めるため」「将来の投資のため」と称して本、音楽、映画、グルメ等を消費する人をたまに見かけるのだが、そういう物言いに違和感をおぼえてしまう。そんなもの個人的興味・趣味で触れるものじゃなかったのか。
 興味があれば触れるし興味がなければ触れない。そんなものだと思っている自分からしてみればなかなか衝撃的な発想だ。趣味的なものだと思っていたものがいつのまにかある種の人にとっては人間性向上ツールになっている。なんなんだろう。
 こういったものが人格形成に影響を与えることはわかっているし、後々振り返って「ああ、こういうものに触れていてよかったなあ」と思うこともある。しかし「人間性を高めるため将来のためにこういうものに触れておきます」という物言いはよくわからない。人間性が高まるか・将来役に立つかどうかなんてよくわかるよなあすごい能力だ、と思う。なんか「思い出を作りなさい」という言葉と似たような違和感を感じる。
 もちろん、その人が将来のため人間性向上のために○○に触れておきます、と自分で宣言したり行動したりしている分には何の問題もない。
 ただ、これを他人にも適用させようとする人がたまにいる。典型的な(そして非常に頭の悪い)例が「読書をしないヤツは人間性に問題がある」とか言い出しちゃう人だ。私は「読書をしないヤツは人間性に問題がある」と脳天気に発言できる人の「人間性」を信用していない。

おまえ一人のせいでみんなが迷惑するんだ!

 学校で受けた「教育」とはタイトルで挙げたような発想が根本にある。クラスで、あるいは学校で誰か一人が悪いことをすると、それが原因で締め付けが厳しくなる。で、その理由は一人がバカをするとクラス(あるいは学校全体)に迷惑がかかるんだ!と説明(説明?)される。
 さて、現在学校の教員には、一見バカじゃねえの?と思うような制限がかかっている。バカじゃねえの?というのは、昔学校にいて教育を受けた俺という人間の基準からみたとき、という条件が付くのだが。
 学校で教員として働く人たちの中には、それがご不満な人もいるようだ。そして、ドラマ「女王の教室」やら威勢のいいことを言うだけのバラエティー番組を観て拍手喝采を送る人もいる。
 でもさあ、教員に対してバカな制限がかかったのは、バカことをする教員がいたからなんだよねえ。そして、教員がいつも言っている「誰か一人が悪いことをすると、学校全体がそういう目で見られる」「誰か一人が悪いことをすると、それが原因で締め付けが厳しくなる」ってのが教員に対して適用された、っていうだけのことなんだよ。少なくとも学校社会ってのはそういうロジックで動いていて、そういうことは子供の頃から身に染みて判っている筈なのに、どうしてその結果を素直に受け入れられないんだろうねえ。不思議で仕方がないや。

 いわゆる「厨」なことを書いている人に対して「こいつ本当に中学生なんじゃないだろうな」みたいな反応をしているのをたまに見かけるが、「本当に中学生」なら問題は深刻じゃない。
 厨なことを言っているのがいいトシしたおっさんおばはんだった時のほうが問題は深刻だ。
 自分の書いたことに対する自己検証能力というか、自己ツッコミを入れられる人なら若いときに一時的に厨であってもそんなに変な方向にイッちゃわない。ただ、それができないまま歳だけを重ねてしまうと…
 たまにすげえのいるもんな。うわあ微笑ましい子だなあと思ってプロフィール見ると「45歳妻子もち」とか書いてあったりして…

利己主義に走るヤツが増えている

 「アメリカから与えられた戦後の教育と称するものは、民主教育と称し、権利や自由平等を強調するあまり、理念なき自由主義や権利意識ばかり強い利己主義者を大量発生させた」というような物言いがある。
 「利己主義者が大量発生」するような状況であるとするなら、それは自由や権利の教育が徹底していない(簡単なところで言えば、他人にも自由や権利はあるんだよ、みたいなこと)が故の結果なのではないかと思うのだが、そうは思わない人が結構いるらしい。
 冒頭のような発言を聞く度に思うのだが、日本国は近代化された社会で成熟した民主主義が定着していると無邪気に(無意識に)信じ込んでいる人が多すぎるのではないか。
 で、「戦後民主主義教育の弊害」ってこういう現象を言うのではないか?戦後民主主義教育の弊害を憂う人はたくさんいるが「戦後日本は社会的に近代化されて成熟した民主主義国家であると思いこんでいる人間が多いが、それは戦後民主主義教育の弊害だ!」って言っている人をあまりみたことがない。

 話は変わって、こないだの土曜深夜にNHK-BSで日本の降伏を扱った番組(フランス製作)をやっていた。番組最後のほうで、敗戦の責任を国民になすりつけようとする日本のマスコミがいたということが軽くナレーションで触れられていた。曰く、戦争で大変な時に国民は利己主義に徹し云々と。
 思わず苦笑してしまった。今も昔もいるのねこういう奴。あと、このマスコミの言葉を借りると、民主主義にも個人主義にも毒されていない筈の戦前戦中世代も利己主義に徹していたそうなので、頭の悪いボケ老人がほざいている寝言はやっぱり寝言なんだなあと思った。
 戦争に負けたり社会が悪くなっているのは利己主義者が増えているからなんですって。

個の尊重でルールを守れない奴が増えた

http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/3ba67f99f3a1edf1db9d11153f3f6e88
http://www.sankei.co.jp/shakai/wadai/070621/wdi070621002.htm

体験入隊を取り入れる企業は、こうした規律や礼儀を学ばせることを目的にしているとみられ、物流メーカー「センコー」(大阪市)の呑田好文・人事部顧問は「ルール順守を最優先する自衛隊で、個を大切にする教育を受けてきた世代に、団体行動規範を学ばせたい企業が増えているのでは」と話す。

 個を大切にすることとルール順守・団体行動規範が両立しないという発想が面白カッコイイ。色々なところで思うのだが、こういうところでその人(あるいは団体)の知能や民度の低さが出るから面白いな。当人にそういう自覚は一切無いだろうけど。

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体感治安

 最近凶悪事件が増えて治安がどんどん悪くなっている、という物言いに対して別に統計上治安は悪くなっていないよ、というツッコミの声がある。すると次は「体感治安」という言葉が出てきてこの言葉をダシにして色々モノを言うようになった。その「体感」とやらを誰がコントロールしているのか・できるのかを考えた方がいい。
 ふと思ったのだが、「体感治安」を根拠に「安全・安心」をやるということは、治安が良くなったという「気分」を与えればそれでいいわけだ。直接的に治安問題に人・モノ・カネをつっこむ必要はない。「気分を与えて」やればそれでいいわけだ。だって体感治安ってそういうことでしょう。「組織が家電製品を通じて私を盗聴している!!!!」とか「今すれ違ったヤツが俺を見て笑った!組織に雇われた監視員に違いない!!!!」とか言っている人の中ではその人にとっての「体感治安」は最悪なわけだが、それに対応するのは警察の仕事なんだろうか。
 まあ、「治安」という名分がつけば色々好き勝手にやりたいことができるよね、最近の流行りとして。

格差社会:拡大し続けないと生活が悪くなるよ

http://anond.hatelabo.jp/20070312035143

 結局、全体のパイの大きさを大きくしないと、みんなが幸せになることはないのね。でなきゃ、所得水準の上下間でお互いの足を引っ張り合うだけの、醜い非生産的な行為しか、やることはない。

 パイの大きさを大きくすることを諦める=幸せになることをあきらめる。

 格差社会の問題を語る際の言説として「経済成長を続けないと庶民の生活はどんどん貧しくなるよだって限られたパイを国民で取り合うんだから(だからもっと生産性を高めないともっと働かないと)」というのを目にする。だがこの意見には納得できない。
 というか、その「パイ」の配分方法に問題があると思う。パイそのものをでかくする以前に考えるべき問題は山ほどあるのではないか。具体的に言えば、金持ち大企業への配分がますます大きくなり、それ以外の大多数の人間(所得水準が上の人も下の人もここに含まれる)に対する配分がますます少なくなっている。まずはそこをなんとかしないと。
 正社員の給料を抑え正社員の数を減らし、派遣やバイトを「有効活用」して企業はバブルを超える収益をあげ、大企業の経営陣が受け取るカネは増えるがそこで働いている人間の給料は何故か抑えられる。そして更に残業代ゼロで働かせホーダイにしようとしてその他にも労働基準法を企業の都合のいいように変えようとしている。
 で、「パイが足りない」んでしたっけ?ふーん。
 ちょっと話は逸れる。あと気になることがあって、「パイを大きくし続ける=成長をし続ける」ことをしないと人間の生活は貧しくなるという言説をたまに見かけるのだが、その「成長をし続ける」という発想はヤバイという感覚を持っていないのだろうか。
参考:経済成長せずに幸せになること

10周年

 なんやかんやで10周年。そうなのか10年なのか、といった感じ。まあほぼ毎日更新しているようなサイトの10年と、このサイトの10年とではだいぶ意味合いが異なるとは思うが。
 最近よく目にする言説で「ネットでは自分にとって都合のいい情報ばかりを選ぶことができるのでいろいろと偏ってしまう」ってのがあって、それは確かにそうだと思うのだけど、ここではちょっと違う話をしたい。
 昔から自分にとって面白いものを読みたくてネットを続けてきたし今も続けている。そして面白いものは昔もあったし今もある。これからも出てくると思っている。もしもネットをしていなかったらその面白いものを一生目にすることがなかったかもしれない。それに面白いことをやっている人と友人知人になることができた。ネットをしていなかったら絶対に会うことはなかっただろう。
 そういう意味で、この10年は「自分にとって都合のいい」情報や人に触れてきた10年とも言える。で、それは自分にとってとても楽しかったことだしこれからも楽しいことだと思っている。
 色々なサイトを見て、色々な人と友人知人になった。閉鎖されたサイトもあるし、今では疎遠/消息不明になってしまった人もいる。もしここを見ていたら連絡ください。
 私はまだダラダラとここにいるつもりなので、どうかよろしく。

世代にレッテルを貼るのはとても楽しい

 かつて「ファミコン世代」「酒鬼薔薇世代」等々のレッテルを貼られて非難をされてきた世代は、「ゆとり教育世代」というレッテルを手に入れた。ようやく下の世代を攻撃できるようになったね!おめでとう!