教員の行う「体罰」に関する風当たりと不公平感について

 私自身はことある毎に罵声を浴びせられ時にはぶん殴られて「教育」されてきたということもあり、教員が生徒に暴力をふるうこと(「体罰」という言い方でもいいが)を「なにがなんでも絶対ダメ」とは思わない。ただまあ、暴力の運用方法に難がある教員のほうが多いな、と昔から思っている。平たく言えば「バカが暴力を用いるから問題になるんだ」ってこと。だから「何がなんでも暴力体罰はダメ」って方向になるのも無理はないよねえとも思う。もっと言えば何が何でも一律禁止!となるのはバカ教員の自業自得で連帯責任。
 かつて自分の周りの教員は「おまえらが悪いことばっかりすると決まりで縛らざるを得なくなる」「誰かが悪いことをすると『あの学校は…』という目で見られるんだ」とことある毎に言っていた。今、その言葉が「教員」自身に降りかかっている。

 さて、「かつて学校で殴られていた人」の中には昨今のそういう風潮に対して面白く思わない人がいる。

http://guideline.livedoor.biz/archives/50911183.html

 もう二度と学校に行かなくてもいいからって好き勝手言い過ぎです。あと根本的に頭の悪いのが混じっている。
 この手のニュースへの反応ってのは「自分が昔、如何にすごい体罰を受けたか自慢」「今になって思えばそれを受け入れられる俺って大人(うっとり)」というものになりがちなんだよね。バカだなあと思うけど、それが「教育の成果」であって、そういう反応をする人ってのが「学校で受けた教育がよく身についているいい子ちゃん」とされているわけだからどうにもならない。当人は本気の善意で心からそう信じているんだろう。何かを自分で抑圧しているという可能性も考えられるけど。
 彼らの発言を聞いていると、「自分たちはバカスカ殴られたのに今のガキどもはそうじゃないなんて不公平だ!不平等だ!」と言いたげなのがとても面白い。典型的な「戦後民主主義教育」の負の側面だな、と思う。
 更に、こういう人たちの中には、別の話題においては「戦後民主主義教育的悪平等が日本人をダメにした」みたいな発言をするのもいて、これもまた面白い現象だ。当人が自身の言動の面白カッコよさに気づいているかどうかは不明だが。

http://d.hatena.ne.jp/oono_n/20080711#1215767315

 これはまた別の「体罰事件」に関するコメントで、至極まともなコメントだと私は思うんだけど、上にも書いたとおり、こういうコメントは「学校で受けた教育がよく身についているいい子ちゃん」のコメントじゃあないのよね。

 繰り返しになるけど、昔に比べて教員の「情熱的な教育指導」がどうしてこんなに騒がれるかというと、バカな教員がバカみたいに「情熱的な教育指導」をバカバカやりまくったからだと私は思っている。そういう意味で、バカ教員の暴力沙汰が騒がれるようになったのはバカ教員の自業自得であり自己責任であり連帯責任であると私は思うんだけど、意外にそう思っている人って少ないのかな。

叱られたことがない世代?ああ新人類世代とかバブル世代のことね

いよいよ「ゆとり世代」が社会人に、真面目だが叱られたことがない若者の意識とは(2) – 09/12/10 | 12:32

真面目でプライドが高く、叱られたことがないという内定者。社会人になれば上司に厳しく注意されることなど珍しいことではない。取引先とのトラブルなど日常茶飯事だ。「ゆとり世代」は社会の荒波を乗り切っていけるのだろうか。
(東洋経済HRオンライン編集部:田宮寛之 撮影:尾形文繁)

 1990年前後だったと記憶しているけど、TVタックルというTV番組でバブル期の新入社員をネタにとりあげていて、「バブル期入社の新入社員が上司に厳しく注意されて『(生まれて)初めて怒られちゃったよ~』と肩を落とす」という内容の再現ビデオを見たことをいまだに覚えている。
 あと、バブル期入社の世代は当時「豊かな社会に生まれて甘やかされてわがままに育った世代」的な言われ方をしていたことも覚えているので、冒頭のような記事を見るとついつい薄ら笑いを浮かべてしまう。2010年の今、「ゆとり世代」を相手に鬱憤晴らしをしている「バブル世代」もいるんだろうなあ。「豊かな社会に生まれて甘やかされてわがままに育った世代」の今の心境を聞いてみたいものです。

 いつまでも変わらない新入社員に関する物言いってのは「老人のご機嫌取りで日銭を稼ぐ紙メディアのビジネスモデル」だという指摘。

http://twitter.com/T_akagi/status/12510375506

間違いなく10年前も同じようなことを言っているメディアがあったし、20年前30年前にも繰り返されているであろう新入社員批判です。:【入社・新生活】 2010年新人社員の取扱説明書 http://bit.ly/cZz6T2

http://twitter.com/monyop/status/12511138443

つまり変わらなかったのは、老人のご機嫌取りで日銭を稼ぐ紙メディアのビジネスモデルだったとw RT @T_akagi: . @chanbara 「新人類」というと、長州力を思い出すゲーム脳。新人類は80年代だから、30年前も同じことを言ってましたね。

 いつの時代も、ビジネスモデルと同時にニーズも不変なのだろう。一種の共犯関係か。

参考リンク:
入社年度別新入社員タイプ
新人類世代の現在
新人類(しんじんるい) – 日本語俗語辞書
(PDF注意)バブル体験世代と消費
http://www.jmr-g.co.jp/proposal/192.html

昔の議論を忘れて「指標や順位が上がれば日本は復活する」みたいに言われてもねえ

 GNPとかGDPとか、子どもの学力の国際順位とか、そういった数字が下がってきていて由々しき事態だ、と騒いでいる人がいて、まあそれはそれでいいんだけどちょっと気になることがある。
 数字とか順位さえ上げればそれでよしと思ってね?ってのがたまに目につく。ジャパンアズナンバーワンなんて言葉があった頃はあった頃で、数字上は金持ちになった筈なのに生活は全然金持ちじゃないとか土地が高すぎて都会に住めないとか相続税が払えないとか人口が多すぎて息が詰まるとか色々あった筈なんだけど。
 そういった過去の議論や反省を踏まえた上で色々考えないと、結局同じところを行ったり来たりするだけで進歩がないんじゃないの?
 自分より年上で、大人として過去を経験して色々な蓄積を積んでいる筈の年代にも、そういった視点がすっぽり抜け落ちている人がいるように見受けられる。なんなんだろう。
 TVタックルって番組あるでしょ?バブル華やかなりし頃、あの番組でママさんコーラスを使って「♪財テク財テク地上~げ♪」って当時の世相を歌わせていたんだけど、バブル崩壊以降一定の頻度で見かける「バブルよもう一度!バブル来れば全てハッピーオールオッケー!」的な人を見るたびにあのネタを思い出す。♪財テク財テク地上~げ♪♪財テク財テク地上~げ♪

 そのからみで思い出したんだけど、2009年6月にNHKのクローズアップ現代でこんな特集があった。

http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku2009/0906-3.html#thu

6月18日(木)放送予定
“10歳の壁”を乗り越えろ ~考える力をどう育てるか~
「学力低下」問題をうけて去年、学習指導要領が改訂。算数・理科は前倒しで今年から新しいカリキュラムへの移行が始まった。授業時間も増えたが、それ以上に学習内容が全体に増加、前倒しされる。そうした中、教育現場で注目されているのが「小4の壁」という現象だ。この20年間、授業時間が削減され、学習内容も易しくなっているにも関わらず、勉強についていけなくなる児童が、9歳から10歳、つまり小学4年前後に急激に増えているのだ。原因の一つと考えられるのが「考える力」の低下。算数の場合、計算は得意でも、文章題になるとできないケースが目立つ。背景として、ドリルに依存した学習スタイルや、家庭での会話の減少によるコミュニケーション能力の遅れなどが指摘されている。各地で模索されている対策も紹介しつつ、「考える力」をどう育てればいいのかを考える。
(NO.2753)
スタジオゲスト : 佐藤 学さん(東京大学教授)

 ここにある

「考える力」の低下。算数の場合、計算は得意でも、文章題になるとできないケースが目立つ。背景として、ドリルに依存した学習スタイルや、家庭での会話の減少によるコミュニケーション能力の遅れなどが指摘されている。

ってのは1980年代後半あたりにも聞いた話だなあと思ったよ。

 更に関連してこんな指摘も。
そろそろ周回遅れの教育議論は止めにしよう – Munchener Brucke

私が中高生だった頃、まさに詰め込み教育、受験地獄批判花盛りで、知識偏重の教育の弊害が盛んに叫ばれた。官僚の不祥事やら、日本の国際競争力低下まで、何でもこれらの問題だとされ、教育改革が急務だとされていた。

ところが今度は、80年代にさんざん議論されたことは無視され、再び教科書が厚くなったというどうでもいい部分が強調され、今度は、知識量偏重の教育を復活させるベクトルが働いた。

全く進歩しない議論を30年間やってきた総括をしないと、また空虚な教育議論を繰り返すだけである。

ただなぜか「ゆとり教育批判」の中で、エリート教育=「詰め込み復活」みたいな議論が多い。20年前の議論の方が理に適っていた

13周年

 このサイトを始めて13年が経った。この一年ごとの区切りが来るのがどんどん早くなっているような気がする。

 ネットにより人の生き方や社会が変わる!なんてことが色々な人によって今まで騒がれてきて、今も騒がれているけど、確かにネットによってそういったものは変わってきたと思う。騒いでいる人が言っているように、あるいは自分が思っていたように変わってきたかはともかく。「ホームページやってるの?オフミとかしてるんだ?」なんて会話は今思うと隔世の感があるよ。ああ、でも用語が違うだけでやってることは変わらないのかな。

 ネットには昔から魑魅魍魎がいた。今はネットを使っている人が多くなっているので更に魑魅魍魎が百花繚乱だ。面白いなと思ったり苦笑したりイライラしたりする。マーケテング!ビズネス!ライフファック!私の名前はクリストファー・エリクソン!

 とりとめもなく書くけど、全体的な傾向か一部の傾向かはわからないけど、最近のネットはtwitterとかmixiみたいなSNSとか、そういったところに「閉じている」という感覚があるけど今後はどうなっていくのやら。ほどほどに想像の範疇のところに、ほどほどに考えもしなかったところに向かっていくのだろうか。

学校裏サイトを「児童・生徒によってgenerateされるMedia」と考える

 最近はあまり話題として目にしないんだけど、いわゆる「学校裏サイト」と呼ばれるものについての文章を一時期多く目にした。その時につらつらと思ったことを書く。

 学校裏サイトの生成過程について読んだとき「これってCGM的だなあ」と思った。レビューサイト的ともSNS的とも。まあ、呼び方は色々あるだろうけど。で、そういったものが、学校の公式コンテンツとしてでなく、勝手サイトみたいな形で誰の目にも触れられるようなところにあると、確かに教員や保護者からしてみるとあまりいいものには見えないよねえ。特に教員からしてみれば、児童・生徒の管理における面倒な火種にもなりかねない。
 学校の中で児童・生徒が何かメディアを産み出しても、学校という閉鎖社会においては教員もそれを管理しやすい(といってもそれはそれで大変だけど)。でもネットの世界に手軽にそんなものを作られてしまうと、それを教員がコントロールするのはとても難しい。少なくとも学校内で交換日記を弾圧するよりは遙かに難易度が高い。
 なんというか、「学校裏サイト」って名前の付け方が、色々なものを物語っているよね。自分に都合の悪いものへむける眼差し。

 で、繰り返しになるけど、「学校裏サイト」ってCGM的だなあと。いじめ等の学校の諸問題の可視化表出化がされる可能性を秘めている(って書くとなんか「学校裏サイト」が「いいもの」のように聞こえてくるね!)。で、例えばいじめの問題に関して言うと、こういうのは学校の教員の立場からいくと非常に「都合が悪い」。学校内で何か面倒なことが起きたときに「心当たりはありませんうちの学校にはいじめはありませんみんな仲良くやってます」ってますます言えなくなっちゃうから。
 学校裏サイトに関する発言で「学校裏サイトがいじめの温床」というのがあって、そのこと自体はいいんだけど、そもそも学校そのものが「いじめの温床」なんだという意識がないお花畑さんがいるなあと思う。というか、学校そのものは「いじめの温床」であってもいいんだろうな。学校という場で教員による情報や生成物の一元管理ができて、そこで情報流通をコントロールできればいいという発想か(もちろん一元管理だってものすごく大変なんだけど)。まあ面倒くさいことで仕事が増えたり責任取らされたりするのは誰でもイヤだもんね。
 教員の立場から言えば、表向き仲良くやっているように振る舞ってもらえれば裏でどんないじめが起こっていようが構わない(全く心当たりがありませんうちの学校/クラスにいじめはありませんみんな仲良くやってました、と言えるから)んだろうだけど、学校が抱える問題点が可視化されて、それが誰に対してもオープンになってしまう学校裏サイトというのは頭の痛い存在なんだろうなあ。教員の影響・統制の及ばないところで児童・生徒により生成されるメディア、ってのは教員にとって非常に都合が悪い。
 いじめで自殺した児童・生徒が残した遺書は上手くやればなんとか握りつぶせる(遺書すら残さないで自殺しちゃう児童・生徒もいる。もしそうなると「証拠」が残らないので学校側の責任を有耶無耶にすることができる)かもしれないけど、いじめの証拠になるようなものがネット上に流れてしまうとそれのコントロールはまず不可能。それは交換日記を潰すような発想・手法では対応しきれない。

 学校の仕組みの問題点ってのは義務教育を受けた人間は多かれ少なかれそれを身に染みて体験しているわけだがその割にはそれは体系化されていなかったりする。だって自分や自分の子供が学校出ちゃえば関係ないわけだし。でも、当事者によってCGM的なメディアを使ってそれが(表現が稚拙であっても)可視化・蓄積されちゃうとこりゃあもう教員の能力じゃ手に負えないだろ。
 いじめ等の学校が抱える構造的な問題点が「学校裏サイト」というCGM的なもので容赦なく可視化されてしまう。しかもそこには学校のコントロールが及びにくい。でも、学校の問題点を構造的なものだと認めたくない人、あるいは能力的にそれが見えない人は「学校裏サイトはいじめの温床」とは言うけれども学校そのものが「いじめの温床」だという現実からは必死で目をそらし決して向き合おうとしない。
 「学校裏サイトを規制してください!」「フィルタリングしましょう!」それで自分に都合の悪い面倒なものを見なくて済むようになればいいですね、交換日記禁止みたいな発想がいつまで通用するのかな?

参考リンク:

松本哉の貧乏人大反乱放送年末年始放送

http://trio4.nobody.jp/keita/

 年末年始はこのネットラジオを聴いている。年明け直後に新宿で一騒動あったらしい。人間筆で書き初めやろうとして警察にボコられたとか。

引きこもり年末年始

 部屋の荷物整理を優先する関係で、今回の年末年始はずっと家に籠もっている。なので遠出せず。そのわりにあまり進んでいないけど。
 「ねんきん定期便」なるものが届いた。「これまでの保険料納付額」を見て暗澹たる気分になる。俺は金持ちじゃなくて金銭的に余裕がないのでね。
 そしてねんきん定期便に記されている「上記の年金額を仮に20年間受給した場合の合計額」という記述が俺の神経を逆撫でする。年金を20年間受給させていただけるのであればこれほど喜ばしいことはございませんなあ。受給開始年齢はこの先何歳まで引き上がるのかな。

 現時点では年金は65歳から受給させていただけるようですよ。
http://www.sia.go.jp/seido/nenkin/kyufu/01.html

 俺も他人の年金でさんざんおいしい思いをしたあげく定年で逃げおおせて一切おとがめなしという充実した人生を送りたかったなあ。

衆院選に関連して色々思ったこと

 2009年8月30日に、衆議院議員総選挙が行われた。

 事前から「民主党圧倒的優勢!」みたいに騒がれていたので、これは自民党と創価学会と電通とユダヤ資本とコミンテルンとGHQと日教組と朝鮮総連によるマスコミ工作に違いない、政権交代はあるにしても民主党圧倒的勝利までは行かないだろうと思ってたんだけどそうでもなかった。

 まあ、政権交代ってのが実際に起きるんだ、ということが示されたってのは一歩前進したという意味では大きいんじゃないかと。ずっと政権にいたが故に政党としてグダグダになってしまった自民党がついに(ようやく?)、といった見方もあるんだろうけど。
 しかしすごいよなあ。自民党圧倒的ゆりしー大勝利からたったの?4年でああなるんだから。自民批判票が民主党にばっかり集まるのか、という印象はあるけど。逆に言えば、この先もどうなるかはわからないわけだ。

 ちょっと前からそうだったけど、自民党の迷走っぷりや自滅っぷりが目も当てられないほど酷かった。わざとやってたんじゃないかと思えるくらい。今回の選挙に関して言えば、今までやってきた政策、これからやろうとしている政策を普通にアピールすればいいのに、わざわざ自分の首を絞めるようなネガティブキャンペーンに力を入れていたのはよくわからなかった。ネガキャンをやりたいならやればいいけど、細心の注意を払わないと逆効果だし、まずは自分とこの政策や実績や今後の展望を具体的にアピールしてからでないと。「反対だけの野党」じゃないんだから。ただ、ああいうことをすると得票結果にどう影響するかのデータは採れたと思うので、今後に活かしていくんだろうな。
 政策に関する具体的な話が全然見えなかった(少なくともそういう印象を持たれてしまった)のも自民党的にはまずかったんじゃないか。具体的にこれこれこういう政策を行って、その結果経済を上向けるとか国民の暮らしを豊かにするとか、そういう話が聞こえてこなかった。もしかしたらあったのかもしれないけど効果の程も疑わしいネガキャンにかき消されていた。「自民党に任せないと日本が大変なことに!」とだけ言われてもねえ。なんというか、今回の自民党は、昔「ダメなものはダメ!」って喚いて失笑を買っていた社会党みたいだった。日本国や日本国民としての私の生活は選挙が終わった後も続くのでもっとしっかりしてほしい。自民党に限らないけど。

 ここ数年、なし崩し的に自分の負担は増え公的サービスは削られ、という状況で、おそらく同じように実感していた人がそれなりにいたので、自公政権に対する風当たりがきつくなるのは避けられなかったんだろうなと思っている。で、次は民主党がチェックされる立場になるわけです。

 私の生活に関して言えば、楽な暮らしがしたい、せめて今よりまともな暮らしがしたいという要求がある。で、それが実現することが最大の関心事なので、政権にいるのは誰でもいいわけです極端な話。私の生活や人生はこれからも続く。

 あと、今回の選挙イベントを通じて思ったのは、各政党がオフィシャルに発している情報をもっとチェックしたほうがいいな、ということ。それだけでなく、普段から、議会や自治体や省庁の発している情報もチェックするようにしよう。

ナチュラルに人間扱いしない

 使い捨て労働者(マイルドな言い方をすると「雇用柔軟型」の労働者)をナチュラルに人間扱いしない人ってのがいるのな、もう息をするように。そういう人がいるってのは知っていたけど、ここ何年かではっきり見えてきた。で、そういうのが偉そうに経営や人生訓を語って「人間が大事」とか言ってたりする。なるほど、使い捨て労働者は人間じゃないとナチュラルに思えるから一見矛盾するようなことをしゃあしゃあと言えるわけだ。「使い捨て労働者は人間じゃない」という前提なら全ては矛盾無しにすっきりと収まるね。で、更に「貧困は自己責任」「労働者はお上に甘えすぎ」とか言うわけだ。おまえが人間扱いされないのはおまえの自己責任、だと。
 それと関連して、「経営者の視点に立ってものを考えろ」という物言いがあるけど、あれは経営者にとって都合のいい従業員育成の側面もあるのだな、ということを思った。残業代をケチるとか責任を従業員側に押しつけるとか。あとは従業員同士での五人組制度。
 で、「経営者の視点に立ってものを考えろ」という訓辞により一定の割合で誇大妄想狂の従業員が出てきて「経営者すなわち俺」「経営者視点でみたらこいつらクビだね(ただし俺除く、と素で信じ込んでいる)」というお笑いショー(巻き込まれる人にとっては笑えないが)が開催されることもあると。
 経営者になる気もなる能力もない人たちにもしっかりと浸透している「経営者の視点(笑)」

参考:
http://fragments.g.hatena.ne.jp/Tez/20061120/p1

 期間工を採用すれば正社員の雇用が安定する、と論者は言う。
 期間工を雇わなければ、正社員をたくさん雇うことになる。もし不景気になれば、減産に伴ってその正社員を大量「リストラ」*1しなければならない。
 ここまでは理解可能だが、ここからさきが意味不明である。
 非正規社員である期間工は、減産に伴って速やかにその数を減らすことができる。その分、正社員を「リストラ」する必要はないのだ。それはすなわち、期間工の青年が職を失うということを意味するはずである。

 にもかかわらず論者は「これは、期間工に犠牲となれというものではな」いというのだ。そして「一人でも多くの人材が正社員として役割を担ってほしいと望むことでもあ」るという。期間工を雇う分正社員の数は雇わないときに比べて少なくなるというのに?
 なるほど正社員は期間工がクビになれば減産に伴って職を失うこともなかろう。しかし、期間工を雇わなかった*2場合に大量採用されクビになる「正社員」とは誰か?期間工がそこに相当するのではないか?
 この論者の主張はこのように意味不明であるが、人間=「人材」とは「正社員」であり、期間工はヒト以下の存在だと考えれば、なんということはない、すっきりと意味が通る。正社員がクビになるのはかわいそうで、期間工が「契約更新は無し」なのは当然なのである。確かに「人間」は平等である。

http://www.mammo.tv/interview/archives/no251.html

 いつの時代もエリート層は選民意識をもっていたろうし、彼らのインナーサークルでは、それこそが一般的な考えだった。ただ、最低限の嗜みとして、人としてあまり乱暴なことはいわなかった。

 たとえば、大学卒業後、私は日本工業新聞に入り、鉄鋼業界を担当する記者になりましたが、業界に特化した新聞のため、ふつうの新聞社ならそれなりの実績がないと会えない新日鉄や日本鋼管の社長に取材することができました。
 彼らは強烈なエリート意識の持ち主でしたが、対極に学力が低いとか勉強する気が人がいたとしても、それは当人だけのせいではなく、社会階層や家庭環境の要因もある。そういうことを知っていました。
 私は若造だったから、何よりもまず彼らのエリート意識に反発を感じたのですが、教えられること少なくなかった。とにかくエリートは鼻持ちならない奴だと一方的に決めつけられない要素をもっていました。
 けれど、教育改革を進める人たちには、自分たちと違った環境で生きている人への頓着がいっさいなかった。強い立場の人があまり威張ってはいけないなど、子どもでもわかる話なのにね。

外でジョギングを再開

 今まで五年弱、フィットネスクラブに月会費を払って通っていた関係で、屋外で運動をすることがなくなっていた。最近、フィットネスクラブの会員種別を変えて、一回利用する毎に料金を払うことにしたので、久しぶりに屋外でのジョギングを再開した。
 で、屋外でのジョギングは大抵週末になる。私は週末は近所のスーパーに飲食物の買い出しに出ているので、外をジョギングしてその帰り道にスーパーに寄って帰宅する、というスタイルを採ることにした。一回の外出でジョギングと買い物の両方をすませようというものぐさ的発想。
 それを実現するために、ヒップバッグを購入し、そこに財布と家の鍵と買い物用マイバッグ(近所のスーパーではレジ袋にカネを取るようになったので)を入れて、更にGPSロガーも入れてランニングをしている。
 それに加えてハートレイトモニターをつけてシューズにはフットポッドをつけている。ジョギングをするのに随分大げさなことになってしまった。

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