横浜市営地下鉄「スマイルマナー向上員」導入とその後の評価について

 2008年1月に、横浜市営地下鉄が「スマイルマナー向上員」を導入することを発表。読売新聞に記事が載っていた。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080204-OYT1T00374.htm (リンク切れ)

 「席譲って」横浜市営地下鉄、マナー向上員導入へ

 市営地下鉄に全国で唯一、全席優先席を導入している横浜市は、3月に開業する市営地下鉄の新線の車内で、高齢者などに席を譲るよう乗客に声を掛ける「スマイルマナー向上員」を乗車させる。
 全席優先席がステッカーや車内放送だけでは、なかなか浸透しないためだ。向上員が声を掛けることで、席の譲り合いを増やしたいという。
 新線は、日吉(港北区)―中山(緑区)駅間を結ぶ「グリーンライン」で、3月30日に開業する。向上員は平日の午後2~5時、2人1組で3チームが活動。車両内を行き来しながら立っている高齢者や妊婦らがいると、「どなたか譲ってもらえませんか」と座っている乗客に呼びかける。トラブルにならないよう、各チームには警備員も付く。
 向上員は、市営地下鉄を利用している18歳以上からアルバイトとして募集し、作文や面接で約20人を選び、3時間の活動で1500円支払う。
 市交通局は「ステッカーや放送だけでは、いつも利用している人は全席優先席を意識しなくなってしまう。譲り合いは強制ではないが、声掛けによってマナーを浸透させたい」と期待する。
 ただ、利用者の向上員導入への受け止め方は様々だ。旭区の主婦(56)は「譲ってあげたくても恥ずかしくて言い出せない場合が多く、声を掛けてもらえれば、背中を押してもらえる」と歓迎する。一方、中区の高校1年の女子生徒(15)は「譲るよう言われたら周りに恥ずかしい」と嫌がり、泉区の男性(81)は「席の譲り合いは本来自発的なものなのに、不自然」と首をかしげる。
 加藤諦三・早稲田大教授(心理学)は「高齢者や妊婦に席を譲るのは当たり前のこと。(向上員導入は)当たり前のことを直接声を掛けて実行させなければならないところまで、日本の社会が心理的に崩壊していることを象徴している」と嘆く。
 全席優先席は、関西の阪急電鉄が1999年に全国で初めて導入したが、浸透せずに昨年10月、廃止した。横浜市は2003年から取り組んでいる。
(2008年2月4日14時39分 読売新聞)

 この取り組みを思いついた人、それにゴーサインを出した人ってどんな人なのかとても興味がある。おそらく本気なんだろうから。
 とても善意な人なんだろうなあと思う。そして「スマイルマナー向上員」にも善意に溢れた人が応募して善意に満ちた活動をしてくれるんだろう。
 まあ、こういう危険の伴う面倒くさい仕事は安いバイト(時給500円)にやらせるってのは合理的だよね。善意(しかも気持ちの悪い)の搾取。

加藤諦三・早稲田大教授(心理学)は「高齢者や妊婦に席を譲るのは当たり前のこと。(向上員導入は)当たり前のことを直接声を掛けて実行させなければならないところまで、日本の社会が心理的に崩壊していることを象徴している」と嘆く。

 この取り組みはおそらく「権利意識ばかりが肥大したモラルや思いやりに欠けた自己中心的な人(「三丁目の夕日」の時代にはこんな自分勝手な人はいなかった!)」のせいで上手くいかず、この取り組みを思いついた人や善意に溢れたスマイルマナー向上員は上記のような捨て台詞を吐くことになると思うけど、その次はどうなるのかな。条例で「高齢者や妊婦に席を譲らない人からは過料を徴収」あたりかな。あるいは次もまた、勘違いした斜め上の取り組みを思いつくのかもしれない。
 そういえば横浜市西区がやったタマちゃん(アザラシ)の住民登録って今はどうなったんだろう。

 そして、横浜市交通局の公式アナウンスがこれ。
http://www.city.yokohama.lg.jp/koutuu/kigyo/newstopics/2007/tsmile.html

モラルやマナー意識が低下している現代社会において、『人』と『人』の温かなコミュニケーションを活かした取組として『スマイルマナー向上員』を組織し、お客様への直接の働きかけによるマナーの啓発活動を実施し、全席優先席制度の理解浸透・定着を目指します。

 この取り組みを思いついた人やOKサインを出した人がどういう人なのかが透けて見える文面だ。スマイルマナー向上員の待遇や活動時間を見ると、時間的経済的に余裕のある意識の高い(笑)人が集まるんじゃないかと思う。
 数年前には「ほっとけない」と連呼してホワイトバンドを着け、オーガニック食品と称するものを消費してちきゅうにやさしい気分に浸り、今は当然ホワイトバンドなんて忘却の彼方だけど最近LOHASに凝ってデザインが古いだけのデジカメを買ったりヴィトンのバッグを「長く使えてちきゅうにやさしい」と嬉々として買っているソトコト読者あたりが集まったら面白いな。
 上記サイトにスマイルマナー向上員の募集チラシのPDFファイルがあって、そこに「車内のスマイルを増やしたい!」とある。
 なるほど、この取り組みを思いついて「これで人と人との温かなコミュニケーションが!古き良き社会のマナーの復活が!」なんて本気で思っている人とその賛同者のスマイルを増やしたいのだな。それが本当にスマイルな状態であるのかは知らないが。

 席を譲ることに関しては、こういう↓発想で取り組みを考えた方がいいと思うんだけどね。
http://d.hatena.ne.jp/strange/20071021#p2

「席を譲って欲しいといわれたらこころよく席を譲る」というマナーにすればいいと思うんだ。こっちの方が時代に合っているような気がするよ。コミュニケーションなしで阿吽の呼吸だけで他人とものごとを進めるというのは、社会が一律だと信じられていたときしか通用しないんだよねえ。
 こっちが何か困っているときに助けてもらえるというのはすごくありがたいことだし、そういう社会になるのはすごくいいことだと思う。でもこっちから何も言ってないのに勝手に助け舟を出してくる人というのは信用しがたい。
 逆に困っているので助けてくれといわずに雰囲気だけで困っているアピールをするという人はすごく感じが悪い。何かしてほしいことがあるのにそのことをいわずに「xxしてくれない!」とか怒っているような人を見るとバカじゃないかと思う。
 それこそ困っているので助けてくれというとか、そういうコミュニケーションをちゃんとすべきじゃないのかなあ。

 …というのが、スマイルマナー向上員のアナウンスを知ったときに私が思ったこと。そして、この取り組みに関しては上記公式アナウンスにもあるけど「半年経過時点で事業効果を検証しその後の事業展開方針を検討します」となっている。例えば、平成20年度末に活動に関しての評価を行っていて(リンク先PDF注意)、そこには「取組内容」として

スマイルマナー向上員
全席優先席の理解浸透を図るため、スマイルマナー向上員によりマナー啓
発活動を行い、3ヶ月毎に浸透度アンケート調査を実施し、評価していきます。
【高速鉄道本部営業課】

とあり、それに対する「年度末の達成状況・課題」として

当初計画では、半年間であった活動を20年度末まで延長して実施しました。事業開始3か月後(20年7月)に行った交通局Webモニターへのアンケート結果(スマイルマナー向上員の認知度が46%、期待度が33%)や向上員の活動報告などを勘案すると、活動の認知度も上がり一定の成果が出ています。このため、21年度はブルーラインにも活動を拡大し、実施することとしました。
【評価C】

とある。「評価C」というのは、「目標どおりの成果があがった」という評価であるとのこと。
 また、「(20年7月)に行った交通局Webモニターへのアンケート結果」というのはおそらくここ『第1回 「地下鉄 車内マナー」について』(リンク先PDF注意)だと思われる。
 そして、「21年度はブルーラインにも活動を拡大し、実施することとしました」というのはおそらくこれ

 実際のところ、横浜市営地下鉄利用者にどう評価されているのかはわからないけど、継続して活動は続けるらしい。

 ところで、スマイルマナー向上員の活動時間帯って「14:00~17:00、平日のみ」とか「平日の日中2時間半程度」ってあるんだけど、この時間帯の乗車率というか席の空き具合ってどの程度なんだろ?ってのが気になった。スマイルマナー向上員の取組が失敗しにくい時間帯設定だなとは思うけど(夜の時間帯に設定しても向上員の通勤的に大変なんだろうが)。

「あなたの家族や友達がどう思うか」

 去年出たポスターの話題なんだけど、このキャンペーン自体は最近も見かけたのでまだまだ続くのかな。

暴力行為防止ポスターを 7月15日(火)から各駅構内、電車内で掲出します!(平成20年)」

暴力行為防止ポスター(平成20年7月・車内吊り)

 暴力行為を防止するために「あなたの暴力行為を家族や友達が見たらどう思うか」という呼びかけをする、っていう発想がステキだなと思う。こういう抑制方法が有効な人は未だに多いし、こういう発想を素朴に当たり前のものとして受け入れている人、本気の善意でこういう呼びかけを真顔でする個性的な人も多いので、まあ民度というか知能に合ったポスターだなと思う。

 一方、こういう発想は人を抑圧するという面もあるし、家族や友人がいない人、「家族や友人」という足枷が通じない人もいる。こういう方便は今後ますます効かなくなってくる(こういう方便のバカバカしさに気づく人は今後ますます増えてくる)と思うので、暴力防止を呼びかける人・人間社会に暮らす人はいつまでも上記ポスターみたいな方便をバカのひとつおぼえみたいに叫ぶのでなく、人間や社会の変化にちゃんと対応していかないと今後は辛いと思うよ。

 というかさ、この暴力行為防止の呼びかけって「暴力をふるわれた人」の存在が見事なまでにすっぽり抜け落ちているのが面白カッコイイ。そういうのっておかしいなとか思わないんだろうか。やっぱり世の中には個性に溢れた変わった人が多い(少なくともポスターを作る側が「個性に溢れた変わった人が多い」と見込んでいる)んだなあ。

 日本で継続的に行われてきた個性に溢れた教育の成果、それに加えて「俺が誰かを殴るのはそれなりの正当性があるんだ!」みたいな無意識の何かがあるからこういう面白い呼びかけポスターができあがるんだろうな。

 で、このポスターを見たときに思い出したのが下のエントリ。ニッポンの教育は継続して成果をあげ続けているのだなあと感心する。

http://d.hatena.ne.jp/gaikichi/20050626#p2

 話が横道に逸れるが「みんなに迷惑をかけない」問題と関連して、ずっと以前から心の片隅に引っかかっている証言がある。
 数年前、少年院の教官をしていた年長の知人に聞いた話では、近年の不良(ヤンキー系ではなくチーマー系だろう)は、傷害事件など起こしても、意外にあっさり反省するという。
 ただ、そこで、なぜか被害者への謝罪の言葉は出ず、決まって「お父さんやお母さんに迷惑をかけて申し訳ない」と言うのだという。

 どうよ?

 罪というのは、本来、加害者と被害者の一対一の関係で決まるべきはずだ。
 ところが、「被害者」に対してではなく、自分の側の「みんな」に対してどうであるか、それが罪になるかの基準というわけだ。
 本末転倒と言うよりないだろう。

 これはもう教育の成果だね。日本社会で継続して行われている教育の成果。確かに本末転倒だと俺も思うけど、それでいいと思っている素朴な善意の人が多いんだから仕方ないよね。

 未成年による殺人事件が起きるたびに「誰かに対して殺意を抱いたとしてもご両親や今までお世話になった人たちのことを考えれば『あの人たちに迷惑をかけることはできない』と思いとどまれる筈だ」なんて得意気に言っていた人たちからみればまさに完璧な「教育の成果」だよ。日本の教育は崩壊してる?何を言っているの?日本で行われている教育は立派に成果をあげていますよ。もっと自信を持とうよ!

※2009/5/10追記:
 下記のエントリをたまたま目にした。

http://fragments.g.hatena.ne.jp/nisemono_san/20070131/1170253367

つまり、「迷惑をかけてはいけません」ということであり、『ECDIARY』風に言えば「迷惑をかけている人を血眼になって探して叩こうとする世界」でもあるわけだ。つまり自分が暴力を振るう正当性を探しまわる。しかし、何処まで言っても暴力に対する正当性は埋められないわけで

 日本社会は「迷惑をかけている人を血眼になって探して叩こうとする世界」であり、同時に「家族や友達が見たらどう思うか」と称して叩く行為を抑えようとする倒錯した社会なのだ、という解釈もできるな。
 あるいは、暴力行為をする人を「迷惑をかけている人」と認定して、そういう人を「血眼になって探して叩」く社会か。

梅田望夫「ウェブ時代をゆく」を読んで気になったこと

 世界がこれからどんどん変わっていく。で、そんな世界でどう生きようか?ということを考えるための本である。なかなか読ませる本だったし、我が身を振り返っても、色々と考えるヒントをくれるいい本だと思った。

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 今回は、この本を読んで気になったことを書く。
 まず、この本はどんな人に向けて書かれた本か。

世界が豊かになりモノが溢れ、先進国の「中の下」あるいは「下の上」よりも上の生活から「生存の危機」が現実的に消えた。

 つまり、「生存の危機」が現実的に消えている人、あるいは当面は「生存の危機」が無い人向けの本なのである。この本を読むときはそれを認識しておいたほうがいい。「生存の危機」に脅えなくて済む生活ができればいいな。
 さて、梅田氏は現在の日本社会の中枢にいる人が「想像力を欠いている」と指摘している。

「大組織を離れる」イコール「路頭に迷う」「人生のレールを外れる」みたいな極端な表現をカジュアルに口にし、それがあたかも真実であるかのような錯覚を人々に与える。じっさい彼らの大半は「目の前にあるすべきことに情熱を注ぐこと」ができた人であり、そうでない人への想像力を欠いているのだ。「好きを貫いて生きていけるほど、世の中、甘いもんじゃない」という大人の言葉は、日本社会の中枢にいる人々の傾向と表裏一体をなすものである。

と述べている。ところが、梅田氏自身が別の部分での「想像力を欠いている」のだ。

「自助の精神」について語ると、それだけで日本では強い反発がある。「強者の論理」でいけないと言う人がいるのである。

社会をどうこうとか考える前に、現実問題として個がしたたかに生きのびられなければ何も始まらないのではないか

 「自助の精神」ではどうにもならない人が増え、目につくようになってきた。日々の糧を確保するのが精一杯で消耗しきってしまい、そしてそこからなかなか這い上がれず、社会の構造的にスキルアップできる機会すら与えられず、『今、職がないからと言って、糊口を凌ぐレベルの「仕事もどき」をしても、職も住居もない人にとっては、なんのスキルアップにもなりません』と言うと「スキルアップまで望んでるのか。図々しいなぁ」と言われ(「スキルアップでキャリアアップ」という考え方が「望ましいもの」として推奨される一方で、ある種の人が同じことを言うと「図々しい」扱いされるという現象はとても興味深い)つつ、スキルがないから這い上がれないことについては全て自分の責任にされてしまう人たちだ。そしてそういう人は今後もどんどん増え続ける。そういう人間を増やす構造になっているし。つまり、「現実問題として個がしたたかに生きのび」るためには「社会をどうこう」しないとどうにもならない人たちがこれからどんどん増えていく。
 ただ、梅田氏にとってはそんなことは与り知らぬことなのだろう。だって梅田氏は「生存の危機」が現実的に消えている人向けに本を書いて商売しているのだから。
 また、「自助の精神」に対する反発についてだが、これは別に梅田氏の意見や生き方そのものが反発を受けているわけではないと思う。ただ、梅田氏の意見は、例えば経団連のお偉方とか人を使い捨てにして大儲けしている人材派遣会社の社長とか、「国は俺にとって都合のいい人材を教育して俺のところに供給するのが当然だ」とビジネス誌で喚く居酒屋チェーンの社長を名乗るキチガイとか、そういう連中にとって恣意的に利用し易いのだ。というかもしも自分がそっちの立場だったら、梅田氏の言う「自助の精神」を徹底的に利用するだろう。
 時代は確かに変わっている。「知の高速道路」を利用して「好きを貫く」という生き方がかなり多くの人にとって可能になってきた。だがもう一方では「自助の精神」以前の問題として「生存の危機」にさらされる人も増えている。そこまで踏まえた上での「新時代の生き方」をどうするか、を考え体系づける言説が出てきてもいい(というか既にあるんだろう)。自分はそこに興味がある。
 梅田氏はそういうことには興味を持たないだろうし、優先順位を割り振ることも自身のリソースをつぎ込むこともないだろうなと思う。もちろん自分のリソースをどうつぎ込むかは本人が決めることなので、そのこと自体が良いとか悪いとかそういうことではない。
 あと、これは読む側の話だけど、この本に出てくる「オプティミズム」と思慮の無さをごっちゃにしているのが目について、なんなんだろうなと思う。この本を自分の都合のいいように解釈して「自分はオプティミストだから正しく、自分を批判する奴はオプティミストじゃないから間違っている」って本気で思いこんで(しかもそのことに対する自覚もない)他人を見下すような連中を見かけると本気で悲しくなる。

※2009/5/7追記:
 というかさ、「好きを貫いて生きる」ことだって甘くないんだよ。この本を読んだ人ならわかると思うけど。
 あと、上の方でこの本は『「生存の危機」が現実的に消えている人、あるいは当面は「生存の危機」が無い人向けの本』と書いたけど、もう一つある。梅田氏がこの本の中で「ウェブ進化論」の感想を下記のように紹介していた。

リアル社会の職業だけからは「大衆」層に分類されてしまうかもしれないし「エリート」になりたいわけではないが、自分の存在を知らしめたいという欲望がある。

「エリート」集団に属することはできなかったが、「大衆」の中に埋没するのも違和感がある。

 この本は、こういう人向けの本でもある。定石だが、なかなかいいところにターゲットを絞ったな、と思う。「エリート集団に属することはできなかった」人の「自分の存在を知らしめたいという欲望」に上手く入り込んでいる。

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受験戦争で子供は周りの子を蹴落とす?

 学歴社会とそれによって引き起こされる受験戦争で、子供は周りの子を蹴落とすように教えられて実際そういうことをしている、っていう言説を自分が学校に行っているころはよく聞いたんだけど、あれってホントなの?というかそんなことしても意味ないよね?ってことを昔思ったし未だに疑問に思っている。
 受験戦争の終着点ってのは大学入試で、そこで学歴(学校歴)が得られるかどうかの大勢が決まる、ってのが、世間で言われていた「受験戦争」だと理解しているんだけど、その状況において「周りの子を蹴落とす」と自分が大学入試に受かる確率が上がるの?それより他にやることがあるというか、それ殆ど意味ないよね?
 「周りの子を蹴落とす」っていうけど、その「周りの子」が自分と同じ大学同じ学部(というか入試における募集単位)を受験するって前提がないとそもそも蹴落とす意味がないよね?誰かを蹴落としたってそいつが自分と違うところ受験するんだったら自分の受験の結果に何の影響も与えないじゃん。
 仮に同じところを受験する人が周りにいたとしても、入試会場にはそれよりはるかに多い人間が全国から集まるんだぜ?しかも自分と同じところを受験するヤツがどこの誰かなんて事前にわかんないでしょ?そんな状況で「周りの子」を蹴落としたってあまり意味ないよね?それとも「周りの子」ってのは当日試験会場に集まった連中のことを指すのか?だとしても、当日何かすれば周りのヤツら蹴落とせるの?というか何するの?試験会場にトラップ仕掛けるの?手当たり次第にぶん殴って病院送り?その場で糞尿垂れ流して嫌がらせ?
 つーかさ、そもそも自分が合格ラインの点数取れなければ受からないよね?周りを蹴落としたって自分が受からなかったら意味ないじゃん。それとも俺が知らないだけで、誰かを蹴落とすとそれが入試の点数に加算される制度とかあったの?

 なんてことを思ったんだけど、結局はいじめの口実として「受験戦争」という言葉というか概念が使われてたという話なんじゃないの?って気がする。

制度やシステムが個人の行動や選択肢を制限する

 子供の頃は主に学校で「努力して結果を出せば自分の選択肢が広がり自分の思うような道を進める」みたいなことを言われて育った。まあその言葉の怪しさはだんだんとわかってくるものだが、自分の場合、それを身をもって体験したのは高校受験の時だった。

 全国的に見れば少数だが、ある地域には「県内一の進学校が別学校」という環境が存在する。これが何を意味するかというと、「一定以上のレベルの大学に行きたいと思ったら共学校という環境を諦めざるをえない」ということだ。まあ小学生の頃から薄々と感づいてはいたが、それが切実なものになった時にはなかなか辛かった。もちろん、県内二の進学校に行って個人の頑張りで…という選択肢もあったのだが、そんな選択肢を選ぶのは少なくとも自分の周りには皆無であったし、過去の進学実績から見てその選択はなかなかチャレンジブルであったし、そもそも自分の周りにはそういう不満を持っているのがいなかった。

 結果的に「自分の意志で」「自分で決めて」別学校に行ってそこでぶーたれることになるのであるが、「自己決定」というものの欺瞞・胡散臭さを15歳そこそこで思い知らされて何とも言えない気分になるとともに、結局自分もその制度を維持するのに手を貸した一人だったのだなと気づいて何ともいえない気分になった。あと自分の部屋の障子の枠がボロボロになり部屋の壁には穴が空き、「努力して結果を出した報いがこれかよ、生まれた場所が違うだけでこの有様か。俺なにか悪いコトしたか?」とブツブツブツブツつぶやく生活を送ることになった。

 つまり、「表向きには選択肢がないことはないが、実質的な選択肢は非常に限られている、そしてそういう状況は再帰的に強化されている」ということだ。社会の制度・システムは時として非常に巧妙にできているということだ。こんなこと社会に出てから気づけばいいことだろ15歳くらいで気づくことじゃないだろ、と思ったことを覚えている。

 おかげで性格は歪み、周りからは呆れられたり今でもそれを引きずっていたりするのだが、ただ、こういう経緯をたどったおかげで「頑張れば頑張っただけ報われる(=おまえが報われないのはおまえの努力が足りないからだ。なんでもかんでも環境のせいにするな甘ったれるな!)」という、制度・システムの巧妙さから目を背けさせるような言説に対して疑問を持てるようになったわけだが………いや、疑問なんか持たないほうが幸福だったよな。

「言論の自由」の履き違え

 おかしなことを言えば批判される、少なくとも様々な方面から様々な声があがる、ってだけのことを「言論の自由の侵害だ!」ってピーピー騒ぐのって、どうみても「戦後民主主義教育」の弊害だよね。

 その当人ご自身が「戦後民主主義教育の弊害」の典型だという意識が全くなくて、むしろ他人を「戦後民主主義教育の弊害」呼ばわりするのも非常に個性的で興味深い。「権利」とか「自由」ってのは君の都合だけを保証するための言葉じゃないんだよ。わかるかな?

 自分は言いたいことを言うけど、それに対して他人に言いたいことを言われることについては異常なアレルギーを発したり(自衛隊アレルギーとかと同じで、何か「特定のイデオロギー」に毒されているのだろう)、ものを言うのにあたって自分の地位や立場や影響力を考慮できない、民主主義社会における言葉の重要さを解っていない人たちってのは非常に典型的な「戦後民主主義教育」の申し子だなと思う。

12周年

 サイトを始めて12年経った。始めた頃から比べて、自分をとりまく環境は随分変わったし、自分自身も変わった。考え方や意見が変わったところも(変わらないところも)ある。
 そういえば、過去のhtmlで書いていた頃のテキストは現在アップロードされていない。WordPressにシステムを乗り換えたときに消したっきりになっている。SOS事件のコンテンツはWordPress上に移行したんだけど、その他のコンテンツは力尽きて未だに移行していない。
 昔も今もネットを見るときは、自分にとって面白いもの楽しいものを見るのが目的になっている。最近思うのが、気がついたらいつの間にか「キャリア教育の成果」みたいな記事がたくさん目につくようになってきたということだ。ブログ人口の増加とか、世相とかを示しているんだろう。

 これからも更新しているんだかしていないんだかわからないようなペースでここは続くんだろうと思う。今は独自ドメインでやっているけど、このドメインは一年毎に更新(料金はコンビニで支払い)しているので、もし私が死んだら更新手続きが行われずに自動的に消えるのだろう。まだ死ぬ予定はないけど。
 面白いものが読めて自分が何かを考えて、人との交流があるかぎりここは続くと思うよ。あ、人との交流はなくなっても続くかな。むしろ更新頻度が増えたりして。

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社会の中で生きるために必要なたった一つの心構え

#189 「家庭のしつけは衰えている」は本当か? 広田照幸 さん(東京大学大学院教授)

一人ひとりの個人は、社会との関係の中で生きている、ということを理解してほしい。働くことも生活することも遊ぶことも、あらゆることが、「社会」を抜きにして成り立っているわけではありません。今の社会のしくみをきちんと理解し、今ある社会に適応して、その中に自分の居場所を見つけていくという側面も必要です。同時に、今の社会のしくみをきちんと批判し、これからの社会を新しく作っていく主体になるという側面も、若い世代に求められています。私もこれからいっそう努力しますけれども、若い世代の人たちも、自分の身の回りだけとか自分だけの人生とかを考えるのではなく、どうか社会的な関心をもってほしいです。

 「社会」の中で生きていくということを考えてみたい。社会的な関心を持つためには、まずは自分の身の回り、自分の生活に根ざした部分から社会を考えた方がいいと思う。その方が真剣さが全然違う。最初は「自分の身の回りだけ」「自分だけの人生」を考えるところから始めればいいんじゃないか。

 生きている中で不満なこと理不尽なことがある。どうしてこんなことになっているのだろう?と考える。自分のことだから真剣に考える。そして、こういう状況の下で、自分の環境を快適に(少しでもマシに)するためにはどうすればいいか考える。
 自分の力で何とかなるかもしれない。社会構造的なもので自分にはどうにもできないかもしれない。それらの複合的なものかもしれない。大抵は白黒はっきりできるようなものではない。安易に結論づけず、徹底的に考えたい。
 確かに社会はおかしいかもしれないが、社会構造が変わるのを待っていられないということもある。当座の現実解としては、自力で何とかしたほうがいいという結論に達することもある。ただ、ここで気をつけてもらいたい。あなたが、理不尽な社会構造に対して「自力でなんとかして自分に快適な環境を手に入れた」とする。それは確かに素晴らしい。でもそれは誰にでもできることではない。そのことは忘れないでいただきたい。自力でなんとかなってそれなりの地位を築いた人がたまに「それが最適解だ!」と声高に言い出したりするが、それは視野狭窄であるか地位の上がった自身の保身であるか他人を都合のいいように動かしたいという欲望だと思っていい。
 それに関連してもう一つ。この手の人は「個人の力で世の中は変わらないんだから自力で頑張って人生のクオリティを高めたほうがいい」と得意気に語る。更に酷くなると「社会に不平不満を言うと霊的ステージが下がって不幸になるしそういう人に関わるとネガティブ菌が感染して自分の人生のクオリティが下がる」なんてことを言い出したりする。こういう人間の力を信じられない、卑屈に下を向いて生きることしかできない後ろ向きネガティブな人には注意しよう(もちろんそういう生き方をすることは否定しない。世の中には色々な生き方があるしそういう生き方をする自由はある)。
 この手の言説を広めようとする人にはその人の事情がある。自分にとって都合のいい社会の現状(そしてその現状はある種の人にとっては理不尽極まりなかったりする)に対して疑問を持たれたりそれを変えられたりしては困るのだ。たまに100%の善意と素でこの手の言説を信じ込んでいる人もいるが、まあ、世の中には個性に溢れた変わった人もいるってことで、自分の障害にならない限りはそっとしておいてあげよう。
 社会の現状が自分にとって都合のいい人は、他人が現状に不満を持たないことを望む。だから「社会に不平不満を言うと霊的ステージが下がって不幸になる」と吹いて廻る。そして不平不満が出ないことをもって「ほうら現状に不平不満なんて存在しないんだよ」と高らかに宣言するのだ。

 自分を、自分をとりまく環境を正確に把握して、徹底的に考えて行動しよう。そして、自分にできることができない他人がいるという可能性を忘れないようにしよう。

参考:http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20080125

学校に行かなくても死なない / 日本での生きにくさ

 学校(高校以前)に行かなくても死なないというのはその通りなんだけど、「学校に行かないようなヤツ」に対する視線というのがあって、例えば何の問題もなく大学の入学試験を通る能力、大学を卒業する能力があって実際そうやっても、「学校に行かないようなヤツ」に対するゲスな目線、あいつが転落したらここぞとばかりに騒いでやる、あいつは登校拒否児だったんだ引きこもりだったんだ、という目線というのはあって、そんなの気になんないよという人もいる一方でそういう目線にどこかでおびえている人もいるかもしれないなあ、なんてことをふと思った。
 これは「学校に行かない」に限らず、他にも色々なケースがある。「あいつはおかしなヤツだった」とかそういうのも含め。

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 なんてことを思いつつ、この本を読んだ。この本の中で、サラリーマン養成所のしての学校はもう時代にそぐわなくなっている、だけど人々の学校信仰は未だ根強く残っている、ということが書いてあった。
 まあ、そうだよなと思う。そして同時にメリットがあったりデメリットが特にないなら学校に行かない必要もない、とも書いてあった。結局そこらへんに落ち着くのかなと思う。まあ学校なんて自分のいいように利用すればいいんだし。
 今現在学校に通っている当事者が、こういうことを理解することが大事だとは思うけど、それやられると教員が困るだろうな。自分たちに都合の悪いことを知ってもらっちゃ困るし、平均的な教員の能力じゃそういうことを身につけた子供は手に負えないだろうし。せいぜい同業者内でのグチグチ話に花が咲くだけか(笑)。

 そして関連する話として、渡辺千賀氏のこのエントリ
 日本で生きにくさを感じたときに厄介なのは、地理的な障壁(海)と言語と地域学校家庭等で叩き込まれる日本社会の常識かなあと思う。これらの障壁は日本国内のある種の人にとってはとても都合が良く、人材の流出をそれなりに防ぐことが出来る。その障壁の強度は、日本の学校や日本社会の教育力(笑)にかなり依存している。
 障壁を乗り越えられる人は苦労して、あるいはあっさりと乗り越えてしまう。頭の良さとか行動力とか生命力とか金の力とか育ちの良さとかで。ただまあそれは誰にでもできるわけではない。できるかできないかのボーダーライン上にいる人を日本国内に押しとどめる力は、冒頭で言ったような障壁だ。ボーダーライン上にいる人で、かつ日本で生きにくさを感じている人にとってこの障壁は自分を閉じこめる檻であり、外に出ようとする自分を引き戻そうとする悪魔の手だ。

 話は少しそれて、このエントリで渡辺氏の子供時代について書かれていて、それを読んで思ったことを少々。
 まあ人間は自分の嫌な記憶は忘れるから、子供時代に戻りたいって感情は出てくるだろうね。ちょっと冷静に考えてみるとそれってすげえ嫌なことなんだけどね。自分の好きな人だけがいて自分にとって嫌なこと不快なことクソなシステムが一切無いなら戻ってもいいけど。
 私は偏見に毒されていて、小中学校の教員ってのは無能勘違い落ちこぼれがなる職業だと信じて疑わないという不治の病を患っている。実際に体験した小中学校時代を考えればそりゃ当然だろ、と今でも思っているのでなかなか深刻な病状である。
 私は「どうして教員ってこんなにバカなんだろ?」と思いながら義務教育期間の大半を過ごしたので、年齢を重ねるにつれて教員や学校社会に理解を示し寛容になっていく同郷のかつての問題児や、教員や学校の理不尽さに涙していたかつての同級生今は小学校の教員、なんて話を聞くとなんとも言えない気分になる。
 学校で受けた教育がよく身についたいい子ちゃん、ってこういう人たちのことなんだなあと思う。昔は私が一番いい子ちゃんだったんだと思っていたんだけどなあ。

年初に立てた目標の達成おめでとうございます

 十日菊とももさんが「さて 2008/1/28の日記にて、ケコーンしてくれる人を探そう、という抱負をあげましたが、実は本日婚姻届を出してきますた。まあ結構早かったんじゃないかなと思っています」とのこと。九ヶ月せずに目標達成という電光石火っぷりにも関わらずこの余裕。
 ことの顛末の詳細を楽しみに待っておりますおめでとうございます。