「世の中を変えようとするより自分を変えたほうがいい」という発想を納得して受け入れること、できる?

 「世の中を変えようとするより自分を変えたほうがいい」
 最近またこの手の言葉をちょくちょく目にするようになった。まあ大抵は労働や生き方の話で出てくる。
 この手の言葉を初めて聞いた時に私が思ったのが「なんて後ろ向きネガティブな考えなんだろう、この人そんな発想で生きてて楽しいんだろうか」ということだった。それから時は流れ、あの時と全く同じ考えでいるわけではないが、あの時の驚きというか衝撃は今でも覚えているし、未だにこの手の言葉を聞くと違和感がある。
 最近になってこの手の言葉を聞く機会が増えているのだが、この種の言葉を発する人たちは自分がネガティブだとは全然思ってなく、むしろポジティブな発言をしていると本気で思っているように見える。これは私には不思議に映るし興味深い。
 別にポジティブ/ネガティブが良い/悪いなんて話をしたいわけではない。人間の能力や可能性の力を見いだせない人だっているし、それで「どうせ世の中なんて変わらないさ」と下を向いて卑屈に生きることだってそれはそれでひとつの生き方だ。
 言ってる本人が「自分は前向きポジティブ人間!」と振る舞っているように見えることには違和感を感じるし不思議な現象だなとは思うけどね。

 ここでちょっと別の話を。

http://www10.cds.ne.jp/~tomomo/index.cgi?D20080531

今朝の2っ系「不満爆発させる韓国の10代」。米国産牛肉輸入制限撤廃に対し学生デモが頻発しているそうで。曰く、その牛肉を食わされるのは給食を受けている学生だ、とのこと。韓国では民主化を経験しているので「市民運動に参加すれば成果を得られるという意識が根強い」のだそーです。社会を変えられると思える社会、いいですね。

 「世の中を変えようとするより自分を変えたほうがいい」と言いながらも、そういう考え方に対してどこかで違和感や抑圧めいたものを感じちゃう人ってのは、こういうニュースや「社会を変えられると思え」て行動しているような人をあまりいい目で見ないんだろうな。心の底から納得して「世の中を変えようとするより自分を変えたほうがいい」って思えてその通りに行動できる人なら他人が余所でどう振る舞おうと揺るがない筈なんだけどね。「いい目で見ない」程度ならいいんだけど、社会を変えられると思って行動している人を積極的に叩いているのを見ると、ああこの人は本気で「世の中を変えようとするより自分を変えたほうがいい」とは信じてない(しかも自分でそのことに気づいていない可能性もある)んだろうなあ、と思う。典型的な「向上心ある人の足を引っ張る」タイプ。
 中途半端に「世の中を変えようとするより自分を変えたほうがいい」って思いこんで(思いこまされて)しまったがために逆にそれに抑圧されて潰れたり、自分にかかる抑圧のフラストレーションを解消するために「社会を変えられる」と思っている人を不毛に叩いて足を引っ張ってあまり質のよろしくない人生を送ったり、更には他人の人生を不毛に狂わせちゃったりする人もいるんだろうな、なんてことを思った。
 誰かに煽られて脅しめいた言葉を受けて、不安や恐怖から自分が納得しきれないお題目に囚われてしまうくらいなら、下に引用するような発想を持って行動したほうがいいと思うんだけどねえ。というか世の中だけがとか自分だけがとか、世の中はそんな極端というか単純なものじゃないよねえ。難しい人には難しいのかな。
 「世の中を変えようとするより自分を変えたほうがいい」という発想を納得して受け入れることができてその通りに行動できるのなら、少なくとも赤の他人の行動を不毛に叩いたり足を引っ張るようなことはしない筈なんだけどね。
http://www.mammo.tv/interview/archives/no189.html

今の社会のしくみをきちんと理解し、今ある社会に適応して、その中に自分の居場所を見つけていくという側面も必要です。同時に、今の社会のしくみをきちんと批判し、これからの社会を新しく作っていく主体になるという側面も若い世代に求められています。私もこれからいっそう努力します

http://www.mammo.tv/interview/archives/no226.html

特にいまは格差社会だということで「うかうかしていたら生きていけない」「こうやって生きないと人としてダメだ」といった脅迫めいたことを言う人も多い。自分がやりたいことができなかったらといって、人にもそうしないようにさせようなんて最低ですよ。
そういう話をいっさい聞かないで、全部逆のことをやってみるのもいい。「そんなの聞かないよ。知らないよ」って、それくらいやってみせて、びびらせないと相手はつけあがる一方ですよ。こちらがびびって、「まじめにやんなきゃ」と思うと調子に乗るから、強気の態度が必要ですね。

必死で信じ込む人たち

 世の中の治安がどんどん悪くなっています、というイメージを流布して、その後で警備会社や防犯ソリューションのCMを流す。警察の予算増強や、職質の強化のお題目を流す。異を唱える連中は治安の悪化を望んでいる犯罪者予備軍/危ない人、という印象づけも忘れない。
 あるいは、スクランブル情報をおどろおどろしく流す。そしてその後でミサイル実験の成果を発表し、更なる予算増強を求める。これで国民の安全は守れます。ならず者国家の攻撃でかけがえのない人がいつ死ぬかわかりません。ミサイルはお高いですが国民一人あたりにすればたったの数百円!これに異を唱える人は日本が嫌いな人/反日勢力の手先/人命を何とも思わない人でなし、という印象づけも忘れない。
 まあ、警察なり商売人なり自衛隊なりの立場の人がそういうことをするのは理解できる。自分が同じ立場なら同じようにするだろう。興味深いのは、彼らと直接的な利害関係もないのにあたかも彼らの出先機関のごとく彼らの広報を行い、異を唱えるヤツを叩いて廻る人たちがいる、ということだ(しかも無償で)。
 そういう人たちが、彼らの主張に完全に同意しているというのなら理解できるのだが、見ていると実はそうでなくて、そういう人たちは彼らの主張を必死になって信じようとしているのではないか、と感じることがある。彼らをそこまで駆り立てるのはいったい何なのだろう?
 警察なり自衛隊なりの(当然それ以外にもある)国家サービス業は、国民に奉仕するというお題目で存在している。で、現実にはどうかというと、ほどほどに奉仕するしほどほどに奉仕しない。特権的な立場にいる人にとっては非常に良く奉仕してくれるだろうし、もしかしたら逆特権的な人もいるかもしれない。現実問題として国家サービス業は全ての国民に等しくサービスを提供するものではないのだ、残念ながら。
 そういった意味で、前述の「彼らの主張を必死になって信じようとしている」人たちにはある種の悲哀を感じずにはいられない。
 別の見方もある。「必死になって信じようとしている人」は「国家なり政府なりを批判する人」が嫌いなあまり過剰に国家や政府に肩入れしてるんじゃないか。「国家なり政府なりを批判する人」が嫌いであることと、自分が国家や政府(のすること)を批判したり不満を持つことは別に矛盾はしないのだが、そうは考えられないのだろうか。所謂「敵の敵は味方」という考え方か。あまりまともな教養の持ち主には見えない。

 少し話は変わる。うろ覚えであるが、森毅氏が自身のエッセイでこんな内容のことを話していた。
「戦争に負けた頃世間の大人達は、さかんに自分たちは政府にだまされていた、とわめきちらしていた。じゃあこれからはだまされないように気をつけよう、となるのかと思っていたら、今度は自分たちをだまさない政府を作ろう、なんてことを言い出すので呆れてしまった」
 森氏の発言に出てくる「政府にだまされていた、とわめきちらしていた」「世間の大人達」が「彼らの主張を必死になって信じようとしている」人たちとダブって見えてしまう。

私は人間性を高めるために本を読みます(笑)

 「人間性を高めるため」「将来の投資のため」と称して本、音楽、映画、グルメ等を消費する人をたまに見かけるのだが、そういう物言いに違和感をおぼえてしまう。そんなもの個人的興味・趣味で触れるものじゃなかったのか。
 興味があれば触れるし興味がなければ触れない。そんなものだと思っている自分からしてみればなかなか衝撃的な発想だ。趣味的なものだと思っていたものがいつのまにかある種の人にとっては人間性向上ツールになっている。なんなんだろう。
 こういったものが人格形成に影響を与えることはわかっているし、後々振り返って「ああ、こういうものに触れていてよかったなあ」と思うこともある。しかし「人間性を高めるため将来のためにこういうものに触れておきます」という物言いはよくわからない。人間性が高まるか・将来役に立つかどうかなんてよくわかるよなあすごい能力だ、と思う。なんか「思い出を作りなさい」という言葉と似たような違和感を感じる。
 もちろん、その人が将来のため人間性向上のために○○に触れておきます、と自分で宣言したり行動したりしている分には何の問題もない。
 ただ、これを他人にも適用させようとする人がたまにいる。典型的な(そして非常に頭の悪い)例が「読書をしないヤツは人間性に問題がある」とか言い出しちゃう人だ。私は「読書をしないヤツは人間性に問題がある」と脳天気に発言できる人の「人間性」を信用していない。

おまえ一人のせいでみんなが迷惑するんだ!

 学校で受けた「教育」とはタイトルで挙げたような発想が根本にある。クラスで、あるいは学校で誰か一人が悪いことをすると、それが原因で締め付けが厳しくなる。で、その理由は一人がバカをするとクラス(あるいは学校全体)に迷惑がかかるんだ!と説明(説明?)される。
 さて、現在学校の教員には、一見バカじゃねえの?と思うような制限がかかっている。バカじゃねえの?というのは、昔学校にいて教育を受けた俺という人間の基準からみたとき、という条件が付くのだが。
 学校で教員として働く人たちの中には、それがご不満な人もいるようだ。そして、ドラマ「女王の教室」やら威勢のいいことを言うだけのバラエティー番組を観て拍手喝采を送る人もいる。
 でもさあ、教員に対してバカな制限がかかったのは、バカことをする教員がいたからなんだよねえ。そして、教員がいつも言っている「誰か一人が悪いことをすると、学校全体がそういう目で見られる」「誰か一人が悪いことをすると、それが原因で締め付けが厳しくなる」ってのが教員に対して適用された、っていうだけのことなんだよ。少なくとも学校社会ってのはそういうロジックで動いていて、そういうことは子供の頃から身に染みて判っている筈なのに、どうしてその結果を素直に受け入れられないんだろうねえ。不思議で仕方がないや。

 いわゆる「厨」なことを書いている人に対して「こいつ本当に中学生なんじゃないだろうな」みたいな反応をしているのをたまに見かけるが、「本当に中学生」なら問題は深刻じゃない。
 厨なことを言っているのがいいトシしたおっさんおばはんだった時のほうが問題は深刻だ。
 自分の書いたことに対する自己検証能力というか、自己ツッコミを入れられる人なら若いときに一時的に厨であってもそんなに変な方向にイッちゃわない。ただ、それができないまま歳だけを重ねてしまうと…
 たまにすげえのいるもんな。うわあ微笑ましい子だなあと思ってプロフィール見ると「45歳妻子もち」とか書いてあったりして…

利己主義に走るヤツが増えている

 「アメリカから与えられた戦後の教育と称するものは、民主教育と称し、権利や自由平等を強調するあまり、理念なき自由主義や権利意識ばかり強い利己主義者を大量発生させた」というような物言いがある。
 「利己主義者が大量発生」するような状況であるとするなら、それは自由や権利の教育が徹底していない(簡単なところで言えば、他人にも自由や権利はあるんだよ、みたいなこと)が故の結果なのではないかと思うのだが、そうは思わない人が結構いるらしい。
 冒頭のような発言を聞く度に思うのだが、日本国は近代化された社会で成熟した民主主義が定着していると無邪気に(無意識に)信じ込んでいる人が多すぎるのではないか。
 で、「戦後民主主義教育の弊害」ってこういう現象を言うのではないか?戦後民主主義教育の弊害を憂う人はたくさんいるが「戦後日本は社会的に近代化されて成熟した民主主義国家であると思いこんでいる人間が多いが、それは戦後民主主義教育の弊害だ!」って言っている人をあまりみたことがない。

 話は変わって、こないだの土曜深夜にNHK-BSで日本の降伏を扱った番組(フランス製作)をやっていた。番組最後のほうで、敗戦の責任を国民になすりつけようとする日本のマスコミがいたということが軽くナレーションで触れられていた。曰く、戦争で大変な時に国民は利己主義に徹し云々と。
 思わず苦笑してしまった。今も昔もいるのねこういう奴。あと、このマスコミの言葉を借りると、民主主義にも個人主義にも毒されていない筈の戦前戦中世代も利己主義に徹していたそうなので、頭の悪いボケ老人がほざいている寝言はやっぱり寝言なんだなあと思った。
 戦争に負けたり社会が悪くなっているのは利己主義者が増えているからなんですって。

個の尊重でルールを守れない奴が増えた

http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/3ba67f99f3a1edf1db9d11153f3f6e88
http://www.sankei.co.jp/shakai/wadai/070621/wdi070621002.htm

体験入隊を取り入れる企業は、こうした規律や礼儀を学ばせることを目的にしているとみられ、物流メーカー「センコー」(大阪市)の呑田好文・人事部顧問は「ルール順守を最優先する自衛隊で、個を大切にする教育を受けてきた世代に、団体行動規範を学ばせたい企業が増えているのでは」と話す。

 個を大切にすることとルール順守・団体行動規範が両立しないという発想が面白カッコイイ。色々なところで思うのだが、こういうところでその人(あるいは団体)の知能や民度の低さが出るから面白いな。当人にそういう自覚は一切無いだろうけど。

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体感治安

 最近凶悪事件が増えて治安がどんどん悪くなっている、という物言いに対して別に統計上治安は悪くなっていないよ、というツッコミの声がある。すると次は「体感治安」という言葉が出てきてこの言葉をダシにして色々モノを言うようになった。その「体感」とやらを誰がコントロールしているのか・できるのかを考えた方がいい。
 ふと思ったのだが、「体感治安」を根拠に「安全・安心」をやるということは、治安が良くなったという「気分」を与えればそれでいいわけだ。直接的に治安問題に人・モノ・カネをつっこむ必要はない。「気分を与えて」やればそれでいいわけだ。だって体感治安ってそういうことでしょう。「組織が家電製品を通じて私を盗聴している!!!!」とか「今すれ違ったヤツが俺を見て笑った!組織に雇われた監視員に違いない!!!!」とか言っている人の中ではその人にとっての「体感治安」は最悪なわけだが、それに対応するのは警察の仕事なんだろうか。
 まあ、「治安」という名分がつけば色々好き勝手にやりたいことができるよね、最近の流行りとして。

格差社会:拡大し続けないと生活が悪くなるよ

http://anond.hatelabo.jp/20070312035143

 結局、全体のパイの大きさを大きくしないと、みんなが幸せになることはないのね。でなきゃ、所得水準の上下間でお互いの足を引っ張り合うだけの、醜い非生産的な行為しか、やることはない。

 パイの大きさを大きくすることを諦める=幸せになることをあきらめる。

 格差社会の問題を語る際の言説として「経済成長を続けないと庶民の生活はどんどん貧しくなるよだって限られたパイを国民で取り合うんだから(だからもっと生産性を高めないともっと働かないと)」というのを目にする。だがこの意見には納得できない。
 というか、その「パイ」の配分方法に問題があると思う。パイそのものをでかくする以前に考えるべき問題は山ほどあるのではないか。具体的に言えば、金持ち大企業への配分がますます大きくなり、それ以外の大多数の人間(所得水準が上の人も下の人もここに含まれる)に対する配分がますます少なくなっている。まずはそこをなんとかしないと。
 正社員の給料を抑え正社員の数を減らし、派遣やバイトを「有効活用」して企業はバブルを超える収益をあげ、大企業の経営陣が受け取るカネは増えるがそこで働いている人間の給料は何故か抑えられる。そして更に残業代ゼロで働かせホーダイにしようとしてその他にも労働基準法を企業の都合のいいように変えようとしている。
 で、「パイが足りない」んでしたっけ?ふーん。
 ちょっと話は逸れる。あと気になることがあって、「パイを大きくし続ける=成長をし続ける」ことをしないと人間の生活は貧しくなるという言説をたまに見かけるのだが、その「成長をし続ける」という発想はヤバイという感覚を持っていないのだろうか。
参考:経済成長せずに幸せになること