理不尽に対する耐性

 他人に向けて「理不尽に対する耐性」とかしたり顔で言うヤツに対しては骨の二、三本+目玉一つくらい潰してもいいと思う。それで恨み言を言い出したら「理不尽に対する耐性」が足りないということなので。
 他人には理不尽への耐性を要求するけど自分自身に対する理不尽は受け入れないと言うのなら、そいつは受けた躾や教育がなっていないので両親や小学校当時の担任を呼びつけていい。

年収○○円あれば全世界年収ランキングの上位××%に入る

http://blogpal.seesaa.net/article/88037108.html

参考までに述べておくけど、年収300万円でも、上位9.44%になる。

たぶん年収三百万円の人は、自分なんて、底辺クラスだと思っていると思う。日本という国でみれば、それは正しいかもしれないけれど、全世界的にみれば、とんでもない金持ちなわけ。これは現実なの。

日本がどれだけ金持ち国家かわかるよね、これで。そして日本人がどれだけ金持ちかも。底辺の労働者ですら、世界の上位10%なわけ。

そもそも、年収10万円でも、TOP 49.22%に入っちゃうの。これが世界の現実。

 上記のような物言いは一時期頻繁に目にした記憶があって、その当時から素朴に疑問なんだが「国や地域によって物価が違う」という「世界の現実」は私が思っているほどには浸透していないんだろうか。

 「国や地域によって物価が違う」という現実から目を逸らさないとやってられない情況があるのか、冒頭のようなことを吹き込んでそのように思いこませる/吹き込まれてそのように思いこむことを強いられている 人たちがいるのか。

継続は疲れるので手軽に社会を変えたいという欲望が

手軽に世界は変えられません/出来損ないの運動としての大量懲戒請求 – ユウガタ – 断片部

 このエントリを見てつらつらと考えたこと。

  • 少なくともここ二十年くらいは「改革」を求める雰囲気がある。
  • 景気が悪くなる(自分に余裕が無くなる)とその傾向が更に強まる。
  • 社会を変えたい。だけど自分は継続的に何かをしたくはない。手軽に変えたい。
  • っていうか自分以外の誰かが自分の都合のいいように社会を変えてくれないかしら。
  • ちょっとの苦情で簡単に店や店員が頭を下げるような傾向になっている(ように見える)。気にくわないCMやイベントに対してもっともらしい苦情を言えば簡単にそれらが中止される(ように見えることもある)。世の中バカが多くて疲れません?
  • あとは、「ネットの力」(わらい)、なんてものの威力がたまに話題になる。
  • 手軽に社会って変えられるんだ!という気分が脹らんでくる(実際手軽に変えられるかどうかは別問題。というか、気分だけ脹らんでいる人も実は社会なんて変えられないと無意識に思っていたりする)。

 で、上記のような「社会の雰囲気」「庶民(わらい)のニーズ」を上手にすくい上げて、上手にアピール&パフォーマンスを行って、上手に庶民を煽ると、新感覚報道バラエティー番組や選挙で人気者になれます。で、その人気者が「庶民のニーズ」に実際に応えているのかあるいは「庶民の支持」を背景に「庶民」のクビをじわじわと絞めているのかどうかはいくつかある過去の実例を参照のこと。
 こーゆー傾向はここ二十年くらいで更に強まっている、という世界観。

 さて、

 長嶋監督時代に巨人のヘッドコーチを務めた須藤豊は、人前でも平気で殴る指導者として選手に恐れられていた。
 春のキャンプでは練習前に選手を宿舎の食堂に集めて毎朝、ミーティングを行った。緊張感を持たせるため、須藤は注意事項やプロとしての心得を説いた後、選手に質問を投げかけるのが常であった。野球センスの塊だが、飽きっぽい元木大介に対する質問は決まっていた。「継続とは何だ?答えてみろ」。
 元木が、「はい、継続とは力なり、です」と答えると、たいていミーティングはお開きで、選手は食堂からぞろぞろと球場へのバスに乗り込むのだった。
 しかし、来る日も来る日も「継続とは何だ」としつこく問われ続けた元木は、ある日、「おい、大介!」と問われて、「継続とは……疲れます!」と答えた。ああ殴られる、とみんなが思った瞬間に須藤が漏らした。「うん、確かに疲れるな」。
(「こんな言葉で叱られたい」清武英利 文春新書773 p107-p108)

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 別に野球の話がしたいわけではない。政権交代が起きた選挙の直前一ヶ月くらいの間、自称「特定の集団に属さず特定の政治思想やイデオロギーを持たない一般の一市民」様が、同じような自称をする人達によって作られたWEBサイトから「特定の政治思想やイデオロギーではない」PDFをDLして、それを大量にプリントアウトしてポスティングするという「特定の政治思想やイデオロギーに基づく政治活動」を行っていた。そのビラを見るに、彼ら彼女らは「日本の危機が危ない!」ということを訴えていたようだが、選挙によって政権交代して以降すっかりその手のビラを見なくなった。日本の危機は去ったのか、それとも彼ら彼女らは、自身の感じている危機感を感じるあまりイギリスに渡米したのか。
 継続は疲れるからこそ、お手軽に社会を自分の望む方法に変えたいという欲望は頭をもたげてくるし、そこにつけ込み利用する「人気者」たちも後を絶たない。

体感治安に対応するのは誰の仕事?

http://twitter.com/fwd_yutaro/status/20701340991

「体感治安」気になったので、主要4紙のDBで90年代以降を見てみると初出は1994年読売で、福岡県警の意識調査にて「体感治安」が使われてる。が、メジャーになってるのは、1996年正月あたりから。井上警視総監のインタビューや国松警察庁長官の話の中に出てくる。オウムの次の年。

 「国家権力が送配電網と家電製品を通じて私を盗聴している!!!!」とか「今すれ違った奴が俺を見て笑った!組織に雇われた監視員に違いない!!!!」とか言っている人の中では、その人にとっての「体感治安」は実際最悪なわけ。だが、それに対応すべきなのは警察ではなくて医者なんじゃないのか。
 素朴な疑問なんだが、「私は全く犯罪に遭っていないけれどなんか最近治安が悪いってテレビや新聞で言っている!怖い!治安は年々悪くなっている!!!!」となると何故警察の管轄になるのだろう。

一生経営者になれない「気分だけ経営者」の悲哀

 会社員の世界は正直よく知らないのだが、一時期よく耳にした「経営者視点」ってなんだったのだろう。「経営者」がそれを言うのならわかるんだが、経営者でもない、なるつもりもない人がしたり顔で「経営者視点での業務遂行」を説いていた。滑稽だなと思いながら聞いていたが、その言葉を発している人は大抵真顔なので、自分の発言に何の疑問も持っていないんだろう。

 不思議で仕方ないのが、「経営者視点を説く労働者」(以下「Aさん」とする)の発言に見え隠れするAさんの意識。
 Aさんの話に出てくる「経営者」には、なぜかAさんやAさんの所属部門を「不要な経営資源」として切り捨てる「経営者」は存在しない。口先だけでも「危機感」とか言ってるのはまだマシなほうで、そういう意識すら無いのも結構いる。
 AさんやAさんの所属部門を評価するのはAさんではない。Aさんは経営者じゃないんだから。なのに、自身が「不要な経営資源」として切り捨てられる可能性に関して無頓着だったりする。「頑張る」「スキルを身につける」「経営者視点で会社に利益をもたらす」とは言うが、それはAさんをAさん自身が評価しているだけの話で「経営者」のAさんに対する評価ではない。「経営者」と「Aさん」が一体化しているという前提がないと意味のない話ではなかろうか。もしかしたらAさんの脳内では「経営者と一体化しているハイブロウな俺ちゃん」というファンタジー設定が具現化しているのだろうか。いったいAさんはどのような会社生活を送っているのだろう、色々な意味で気になる。

社会人は経営者の視点がないと生き残れない気がするのですが、どうでしょう?:片岡麻実の「チャレンジド×IT=ユニバーサルデザイン!?」 – CNET Japan

 ここでなかなか興味深いやりとりがあった。どうもコメント欄は既に無くなっている?ようなのだが、自分のメモに残っているやりとりを紹介したい。

> 会社の利益を上げなければお給料を本来もらえないのでは?
 そのひと言では何とも言えません。
 経営者はそれが日常的に利益を上げることが仕事ですが従業員は与えられた仕事を正しくこなすのが仕事。研究開発などもそうですが利益が上がらなくても誰かがやらなければならない仕事など世の中たくさんあります。

極論ですが会社の規模がどうあれ、たった1人の行動や判断のおかしな社員がいればその行動や判断次第で会社が傾くことだってあり得ます。だから「経営者」には質の高い行動と確実な判断が求められます。でも行動のおかしな社員に「あなたも経営者たれ」なんて言ったらどうなるか?

 Aさんの持っている「経営者の視点」が「実際の経営者の視点」とあまりに違いすぎるとまずかろうなと思う。「自分は経営者と一体化している!」という、脳内設定と現実の区分が曖昧になってしまったAさんが「経営者すなわち俺」と「経営者の視点」を振り回すと「会社の利益」を損ねる確率が上がるだろう。しかも、現実と脳内設定の境界があやふやになってしまったAさんはその自覚を持てるだろうか?「経営者の視点を持つ俺が会社の利益を損ねているなんてありえない!」となってしまう可能性は?

 さて、
ワタミ会長「ビルの9階で会議中に、『今すぐここから飛び降りろ!』と平気で言います。」:アルファルファモザイク
はてなブックマーク – ワタミ会長「ビルの9階で会議中に、『今すぐここから飛び降りろ!』と平気で言います。」:アルファルファモザイク

 「罵倒の後優しく」という定番の奴隷製造メソッドと、そうやって仕立て上げた奴隷に経営者の権限や責任や待遇を与えることなく「経営者目線」を要求する、という奴隷活用のテクニックがある。
 権限も責任も待遇も与えないままに「経営者目線」を要求したって、せいぜい「気分だけ経営者」(「名ばかり管理職」みたいなものだと思ってください)になった奴隷が自分の気にくわないヤツを指して「あいつはせいさんせいがひくいからりすとらでちゅーばぶぅー」にしかならないのではなかろうか。
 まあ、渡邉美樹氏のような経営者からしてみればそれでいいし、また、それで満足してしまう「気分だけ経営者」な「経営者視点を説く労働者」も結構たくさんいるのだろうなあ。
 当人が満足なのはいいんだけど、こういった人を抱えている企業や周囲の人は大変だろう。

 そしてまた別のブログで興味深い指摘が。
それは経団連用語の「主体性」を誤解していますね

集団や組織に懐疑の目を向ける唯一者としての主体性ではありません。むしろ、集団や組織と一体化する主体性です。
これは、組織の一員として自分が組織を背負ったつもりで、地位は平社員であっても社長になったつもりで、まさに自分自身を組織の主体と考えて行動できる性質のことです。島耕作的主体性とでも言いましょうか。

企業の言う「主体性」と、大学が受け取る「主体性」のズレ

企業側は「こちらが何も言わなくても、自主的にこちらの意向を汲み取り、自主的にこちらの望む行動をする人材が欲しい」という意味で「主体性のある学生が欲しい」と言っている

 「気分だけ経営者」な「経営者視点を説く労働者」とは「企業の求める主体性」の持ち主である、と言うこともできそうだ。もちろん「Aさんが脳内で思い描く自画像」と「経営者が実際に求める人物像」のミスマッチはあるのだが。
 一昔前のドラマにありそうな「俺は会社のために身を粉にして頑張ってきたのに…」というのと似たような悲哀を感じる。本人は「俺は企業(経営者)の求める人材なんだ!」とハッピーに(あるいは必死に)思いこんでいるのに経営者はそうは思っていないという…

暴力行為防止ポスターはサラリーマンのみを対象にしている

 社団法人日本民営鉄道協会が、駅構内や電車内に「暴力行為防止ポスター」を掲示している。平成22年(2010年)12月6日のプレスリリースを参照。
 この手のポスターは数年前から見かけるもので、このブログでも以前話題にした(2009年5月6日「あなたの家族や友達がどう思うか」)。そこでは「暴力を振るわれた人の不在」に対する違和感や、暴力行為防止の呼びかけに「あなたの家族や友達」を持ち出す気持ち悪さ・おかしさ、について書いた。

 で、先日またこの呼びかけポスターを見かけてふと思ったのだが、この一連のキャンペーンって呼びかけ対象が「サラリーマンのみ」なのではなかろうか。冒頭にリンクしたプレスリリースから、ポスターの掲示目的を記した文書と、ポスターのイメージをPDFで見ることができるが、その文書には

3.ポスターで訴求するポイント
 ヒビの入った写真とあわせて、「お酒に酔っての暴力行為が、あなたの大切なものをすべて壊してしまう」と強くメッセージを打ち出し、暴力行為を未然に防ぐことを目指します。
 また、暴力行為は犯罪であること、暴力行為に対して鉄道業界全体が結束して、毅然とした態度で対応することを強く訴えます。

とあり、ポスターには

上司や同僚たちに信頼され、やりがいのある職場。
仕事を通じて、社会の中に築いてきた人間関係。

しかし、お酒に酔っての”暴力行為”が、
あなたの大切なものを全て壊してしまいます。

明日もまた、いつもどおりの一日を過ごすために。

と書かれている。このポスターはどのような種類の人達に向けて作られたものなのかが見えてくる。

 また、この文書には

今回の取り組みは駅や電車内におけるお客様同士のトラブルや、駅員や乗務員などの鉄道係員に対する暴力行為が増加している昨今の状況を鑑み

とある。

 つまり、社団法人日本民営鉄道協会は

『「上司や同僚」「職場」を持ち「仕事を通じて、社会の中に築いてきた人間関係」がある人』によって「お客様同士のトラブルや、駅員や乗組員などの鉄道係員に対する暴力行為が増加」している

という認識を持っているわけだ。

 これは「職場がないヤツは暴力沙汰を起こして構わない」というよりは、「そういうヤツは車内で暴力沙汰を起こさない(起こしたとしても数が少ない)ので呼びかけの対象外」なのだろう。

 まあ、だとしてもこのポスターの気持ち悪さ、グロテスクさは変わらないのだが。なんというか、子供に対して「あのおじさんに怒られるよ」と言う親みたいな気持ち悪さがぷんぷんと漂ってくるのだあのキャンペーンポスターには。

 あと、「上司」「同僚」「職場」「社会」「人間関係」という言葉を用いると、ある種の人間をコントロールできる(実際ポスターを作っている側はそれがねらいなのだし)、というグロテスクさもよく表現されているポスターだ。

※2011/07/18 追記:
 今日気づいたのだが、JCcast第42回にて、粥川準二氏が電車内での暴力について話題にしていた

 議論のなかで、武田さんが、車内暴力の加害者について、「弱者じゃないの?」と提起し、僕はそれに同意した。
 補足しておこう。ストレスに満ちた環境があり、そこに身を置かざるを得ない人がいる。彼はアルコールでそのストレスを発散しようとしたが、結果として発散できなかった。そのまま、年末の深夜の電車というさらにストレスに満ちた環境に入る。そこではうっとおしいヤツらが大声で話しており、彼のストレスは臨界に達する……僕に直接手を出したオッサンはさておき、車内暴力をふるわざるとえない人々を、「弱者」とみなしても、それほど不当ではないと思う。

薄っぺらさや底の浅さが目につきやすくなっているのか

 日々の出来事や流れるニュースを見て、その時その時で自分では何かを言っているような気分でコメントして、でもそれが底が浅かったり薄っぺらい発言ばっかりだとする。話題になるようなニュースや出来事が次から次へと流れてきて、それにコメントをする頻度が増えれば増えるほど、こういった「底の浅さ」「薄っぺらさ」はより目立つようになる。
 ニュースや出来事自体が少なかったり、一つの話題で何ヶ月も話ができるような状況にあるよりも、「底の浅さ」「薄っぺらさ」はより目立つようになる。

 で、そういうのを目にする度に「自分は頭がいいと思っているバカ」という罵倒フレーズがよく頭に浮かぶんだか、その罵倒フレーズが頭に浮かぶ度に自分に大ダメージがヴホォアー

急にカネを持つようになった人がお出かけをすると

 日本に来る中国人観光客のマナーが悪い、的な声を聞くとき、「まー急速に経済成長をした(急速にカネを持つようになった)人が余所に出かけるようになると、そう見えてしまったり実際そうだったりすることがあるよね。昔の(今でも?)日本人観光客が海外で評判悪いと言われていたのと同じか」と私は思うんだけど、そうは思わずに「かの国の国民性」とか言い出している人を見ると頭を抱えてしまう。カネ持ってなかった人が急にカネを持つようになれば程度の差はあれそうなるんじゃないのか。
 最近のことしか知らない若い人は言うのは仕方がない面があるにせよ、過去の日本を経験している筈の年寄りが似たようなことを言っているのを見ると、教養とかものを考える力とかいうのは大事で、そういった能力は後から取り返しをつけるのが困難なのかなあと思ってしまう。成長もなく歳の数だけは増えて、そのカウント数だけをもって自分が偉くなったかのように錯覚している、学力や人格が低い年寄りは確かに存在するし、そういう人ってのは自覚や反省する心を持つには既に手遅れだったりするからねえ。
 だいぶ前の話だけど、2008/2/28に放送された、NHKのクローズアップ現代「新興国富裕層が日本を変える」で、日本に来る海外の富裕層の特集をしていた。海外の羽振りのいい人たちが日本でたくさん消費をしてますよ、という冒頭だった。高度経済成長期やバブル期の頃は日本人が海外でこういうことをしていたんだろうな海外の人の目にはこんな風に映っていたのかもしれないなあ、なんてことを思った。
 日本での買い物ツアーにあたり「たくさん買い物するぞー、おー!」って言ってた人たちや、値段の高い料理を食いながら「おいしいでーす」とカメラに向かって言う人、かつての「金満日本人」(って言い方はおかしいか。金満日本人は昔も今も金満日本人だし)のイメージとかぶるよなあ。
 ある程度以上の年齢の人ならそう見るよなあ、と私は思っているのだが、実はそうでもないのかもね。

「教員はサラリーマン経験をしたことがない≒社会を知らない」「サラリーマンはつまらない人間」

 「教員は社会を知らない(≒サラリーマンをしたことがない)からダメ」って物言いは「なんでも環境のせいにしている」物言いだな、という理屈を思いついた。「サラリーマンは平凡でつまらない人間」ってのもそうだな。
 ただ、「教員はサラリーマンをしたことがないから社会を知らなくてダメ」ってのはある意味やさしみのある物言いだよね。「社会を知っていようがいまいが、サラリーマンをしたことがあろうがなかろうが教員は根本的にダメ」なんてことになったら、仮に本当にそうだとしても残酷な物言いだよなあ、だったら「サラリーマンをしたことないから」ダメなんだ、ってことにしておいたほうがやさしみのある態度なのかもね。

 そういえば「サラリーマンは平凡でつまらない人間」っていう物言いは最近聞かなくなったなあ。サラリーマンじゃない!ビジネスマン(ビジネスパーソン)だ!とか、ライフハックでスキルアップでキャリアアップでやりがいと成長と自己実現だ!っていうイメージ(イメージと現実のギャップについては必死に目をそらしましょう)がそれなりに定着したということなのかなあ。昔のリゲインの「24時間戦えますか」CMはギャグ的要素があったけど、今はあれを大真面目にトレースしているのだなと考えると色々とブラックだ。研修屋とコンサル屋の日々の努力が実を結んだね!
 その手のイメージが定着することで一番利益を得られるのは誰か?貧乏籤を引かされるのは誰か?というかそもそも「ビジネスマン(ビジネスパーソン)」ってのは経営をしている人のことじゃね?ということは考えないようにしよう。邪念を持つ信心の足りない人は血が穢れて人生のサクセスが遠のきます。経営者の視点(笑)。

教員の行う「体罰」に関する風当たりと不公平感について

 私自身はことある毎に罵声を浴びせられ時にはぶん殴られて「教育」されてきたということもあり、教員が生徒に暴力をふるうこと(「体罰」という言い方でもいいが)を「なにがなんでも絶対ダメ」とは思わない。ただまあ、暴力の運用方法に難がある教員のほうが多いな、と昔から思っている。平たく言えば「バカが暴力を用いるから問題になるんだ」ってこと。だから「何がなんでも暴力体罰はダメ」って方向になるのも無理はないよねえとも思う。もっと言えば何が何でも一律禁止!となるのはバカ教員の自業自得で連帯責任。
 かつて自分の周りの教員は「おまえらが悪いことばっかりすると決まりで縛らざるを得なくなる」「誰かが悪いことをすると『あの学校は…』という目で見られるんだ」とことある毎に言っていた。今、その言葉が「教員」自身に降りかかっている。

 さて、「かつて学校で殴られていた人」の中には昨今のそういう風潮に対して面白く思わない人がいる。

http://guideline.livedoor.biz/archives/50911183.html

 もう二度と学校に行かなくてもいいからって好き勝手言い過ぎです。あと根本的に頭の悪いのが混じっている。
 この手のニュースへの反応ってのは「自分が昔、如何にすごい体罰を受けたか自慢」「今になって思えばそれを受け入れられる俺って大人(うっとり)」というものになりがちなんだよね。バカだなあと思うけど、それが「教育の成果」であって、そういう反応をする人ってのが「学校で受けた教育がよく身についているいい子ちゃん」とされているわけだからどうにもならない。当人は本気の善意で心からそう信じているんだろう。何かを自分で抑圧しているという可能性も考えられるけど。
 彼らの発言を聞いていると、「自分たちはバカスカ殴られたのに今のガキどもはそうじゃないなんて不公平だ!不平等だ!」と言いたげなのがとても面白い。典型的な「戦後民主主義教育」の負の側面だな、と思う。
 更に、こういう人たちの中には、別の話題においては「戦後民主主義教育的悪平等が日本人をダメにした」みたいな発言をするのもいて、これもまた面白い現象だ。当人が自身の言動の面白カッコよさに気づいているかどうかは不明だが。

http://d.hatena.ne.jp/oono_n/20080711#1215767315

 これはまた別の「体罰事件」に関するコメントで、至極まともなコメントだと私は思うんだけど、上にも書いたとおり、こういうコメントは「学校で受けた教育がよく身についているいい子ちゃん」のコメントじゃあないのよね。

 繰り返しになるけど、昔に比べて教員の「情熱的な教育指導」がどうしてこんなに騒がれるかというと、バカな教員がバカみたいに「情熱的な教育指導」をバカバカやりまくったからだと私は思っている。そういう意味で、バカ教員の暴力沙汰が騒がれるようになったのはバカ教員の自業自得であり自己責任であり連帯責任であると私は思うんだけど、意外にそう思っている人って少ないのかな。