「敏感過ぎる自分を好きになれる本」長沼睦雄

 些細なことに反応してしまう。そんな人はHSP(Highly Sensitive Person)なのかもしれない。HSPは医学的な概念として認められていないらしい。しかしHSPと思われる人は確かにいるように思われる。この本でも「性格や思考のゆがみでは説明できない過剰な敏感さ」と説明されている。
 そんな人は如何に「生きづらさ」に対応していけばいいのか。そのヒントが記されている。「過剰な敏感さ」を利用して支配しようとしてくる人からは距離を置く、などのこと。

「敏感すぎる自分」を好きになれる本 「敏感すぎる自分」を好きになれる本
長沼 睦雄

青春出版社 2016-04-29
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いろいろな生産の形

#372 アイデンティティとは、いま、そこにある捨てられずに残ってしまう何か 石川 竜一さん(写真家)

 MAMMO.TVにあったインタビュー記事。

たまたま知り合った精神科の医師と話す機会がありました。そこで話題になったのが、「治療とは結局は何なのか?」でした。

精神病院の治療とは、生きづらさを抱えて患者と呼ばれるようになった人が社会でやっていける状態に持っていくことです。そこで僕が考えたのは、「社会」とは資本主義とか生産性のことです。治療は、社会からこぼれた人を入れ直して「生産性をあげましょう」と言うようなものです。

でも本当にそうなのか。少し考えたら普通にわかるのは、別にそうである必要はないことです。もっと別の生産の形があることの方がおもしろいんじゃないか。いまの社会に適応している人だけでは行き詰まっているのだから、生きづらい人をそこに引き入れても仕方ない。

いまの多数派の人で作られている「社会」や「生産性」ではなく、もっといろんな形であり得るはず。というのも一人ひとりが違うわけだから、そこまでバラしてみたら、全部「それもありだね」で並べられるんじゃないか。そちらの方がおもしろいと思います。

 なるほどと思いつつも、「いまの社会に適応している人だけでは行き詰まっているのだから、生きづらい人をそこに引き入れても仕方ない。」という部分には引っかかった。「いまの社会に適応している人だけでは行き詰まっている」からこそ、「生きづらい人」を引き入れることも大事なのではないか、と。ただ、こういう私の考え方は「社会(石川氏の言うところの「資本主義とか生産性」)」じみた考え方なのだろうなあとも思う。
 しかし、「別にそうである必要はないことです。もっと別の生産の形があることの方がおもしろいんじゃないか。」というのも確かにその通りで、色々な形があったほうがおもしろいし、より生きやすいだろうなあと思う。

松本哉の貧乏人大反乱放送年末年始放送

http://trio4.nobody.jp/keita/

 年末年始はこのネットラジオを聴いている。年明け直後に新宿で一騒動あったらしい。人間筆で書き初めやろうとして警察にボコられたとか。

引きこもり年末年始

 部屋の荷物整理を優先する関係で、今回の年末年始はずっと家に籠もっている。なので遠出せず。そのわりにあまり進んでいないけど。
 「ねんきん定期便」なるものが届いた。「これまでの保険料納付額」を見て暗澹たる気分になる。俺は金持ちじゃなくて金銭的に余裕がないのでね。
 そしてねんきん定期便に記されている「上記の年金額を仮に20年間受給した場合の合計額」という記述が俺の神経を逆撫でする。年金を20年間受給させていただけるのであればこれほど喜ばしいことはございませんなあ。受給開始年齢はこの先何歳まで引き上がるのかな。

 現時点では年金は65歳から受給させていただけるようですよ。
http://www.sia.go.jp/seido/nenkin/kyufu/01.html

 俺も他人の年金でさんざんおいしい思いをしたあげく定年で逃げおおせて一切おとがめなしという充実した人生を送りたかったなあ。

衆院選に関連して色々思ったこと

 2009年8月30日に、衆議院議員総選挙が行われた。

 事前から「民主党圧倒的優勢!」みたいに騒がれていたので、これは自民党と創価学会と電通とユダヤ資本とコミンテルンとGHQと日教組と朝鮮総連によるマスコミ工作に違いない、政権交代はあるにしても民主党圧倒的勝利までは行かないだろうと思ってたんだけどそうでもなかった。

 まあ、政権交代ってのが実際に起きるんだ、ということが示されたってのは一歩前進したという意味では大きいんじゃないかと。ずっと政権にいたが故に政党としてグダグダになってしまった自民党がついに(ようやく?)、といった見方もあるんだろうけど。
 しかしすごいよなあ。自民党圧倒的ゆりしー大勝利からたったの?4年でああなるんだから。自民批判票が民主党にばっかり集まるのか、という印象はあるけど。逆に言えば、この先もどうなるかはわからないわけだ。

 ちょっと前からそうだったけど、自民党の迷走っぷりや自滅っぷりが目も当てられないほど酷かった。わざとやってたんじゃないかと思えるくらい。今回の選挙に関して言えば、今までやってきた政策、これからやろうとしている政策を普通にアピールすればいいのに、わざわざ自分の首を絞めるようなネガティブキャンペーンに力を入れていたのはよくわからなかった。ネガキャンをやりたいならやればいいけど、細心の注意を払わないと逆効果だし、まずは自分とこの政策や実績や今後の展望を具体的にアピールしてからでないと。「反対だけの野党」じゃないんだから。ただ、ああいうことをすると得票結果にどう影響するかのデータは採れたと思うので、今後に活かしていくんだろうな。
 政策に関する具体的な話が全然見えなかった(少なくともそういう印象を持たれてしまった)のも自民党的にはまずかったんじゃないか。具体的にこれこれこういう政策を行って、その結果経済を上向けるとか国民の暮らしを豊かにするとか、そういう話が聞こえてこなかった。もしかしたらあったのかもしれないけど効果の程も疑わしいネガキャンにかき消されていた。「自民党に任せないと日本が大変なことに!」とだけ言われてもねえ。なんというか、今回の自民党は、昔「ダメなものはダメ!」って喚いて失笑を買っていた社会党みたいだった。日本国や日本国民としての私の生活は選挙が終わった後も続くのでもっとしっかりしてほしい。自民党に限らないけど。

 ここ数年、なし崩し的に自分の負担は増え公的サービスは削られ、という状況で、おそらく同じように実感していた人がそれなりにいたので、自公政権に対する風当たりがきつくなるのは避けられなかったんだろうなと思っている。で、次は民主党がチェックされる立場になるわけです。

 私の生活に関して言えば、楽な暮らしがしたい、せめて今よりまともな暮らしがしたいという要求がある。で、それが実現することが最大の関心事なので、政権にいるのは誰でもいいわけです極端な話。私の生活や人生はこれからも続く。

 あと、今回の選挙イベントを通じて思ったのは、各政党がオフィシャルに発している情報をもっとチェックしたほうがいいな、ということ。それだけでなく、普段から、議会や自治体や省庁の発している情報もチェックするようにしよう。

梅田望夫「ウェブ時代をゆく」を読んで気になったこと

 世界がこれからどんどん変わっていく。で、そんな世界でどう生きようか?ということを考えるための本である。なかなか読ませる本だったし、我が身を振り返っても、色々と考えるヒントをくれるいい本だと思った。

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書) ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)
梅田 望夫

筑摩書房 2007-11-06
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 今回は、この本を読んで気になったことを書く。
 まず、この本はどんな人に向けて書かれた本か。

世界が豊かになりモノが溢れ、先進国の「中の下」あるいは「下の上」よりも上の生活から「生存の危機」が現実的に消えた。

 つまり、「生存の危機」が現実的に消えている人、あるいは当面は「生存の危機」が無い人向けの本なのである。この本を読むときはそれを認識しておいたほうがいい。「生存の危機」に脅えなくて済む生活ができればいいな。
 さて、梅田氏は現在の日本社会の中枢にいる人が「想像力を欠いている」と指摘している。

「大組織を離れる」イコール「路頭に迷う」「人生のレールを外れる」みたいな極端な表現をカジュアルに口にし、それがあたかも真実であるかのような錯覚を人々に与える。じっさい彼らの大半は「目の前にあるすべきことに情熱を注ぐこと」ができた人であり、そうでない人への想像力を欠いているのだ。「好きを貫いて生きていけるほど、世の中、甘いもんじゃない」という大人の言葉は、日本社会の中枢にいる人々の傾向と表裏一体をなすものである。

と述べている。ところが、梅田氏自身が別の部分での「想像力を欠いている」のだ。

「自助の精神」について語ると、それだけで日本では強い反発がある。「強者の論理」でいけないと言う人がいるのである。

社会をどうこうとか考える前に、現実問題として個がしたたかに生きのびられなければ何も始まらないのではないか

 「自助の精神」ではどうにもならない人が増え、目につくようになってきた。日々の糧を確保するのが精一杯で消耗しきってしまい、そしてそこからなかなか這い上がれず、社会の構造的にスキルアップできる機会すら与えられず、『今、職がないからと言って、糊口を凌ぐレベルの「仕事もどき」をしても、職も住居もない人にとっては、なんのスキルアップにもなりません』と言うと「スキルアップまで望んでるのか。図々しいなぁ」と言われ(「スキルアップでキャリアアップ」という考え方が「望ましいもの」として推奨される一方で、ある種の人が同じことを言うと「図々しい」扱いされるという現象はとても興味深い)つつ、スキルがないから這い上がれないことについては全て自分の責任にされてしまう人たちだ。そしてそういう人は今後もどんどん増え続ける。そういう人間を増やす構造になっているし。つまり、「現実問題として個がしたたかに生きのび」るためには「社会をどうこう」しないとどうにもならない人たちがこれからどんどん増えていく。
 ただ、梅田氏にとってはそんなことは与り知らぬことなのだろう。だって梅田氏は「生存の危機」が現実的に消えている人向けに本を書いて商売しているのだから。
 また、「自助の精神」に対する反発についてだが、これは別に梅田氏の意見や生き方そのものが反発を受けているわけではないと思う。ただ、梅田氏の意見は、例えば経団連のお偉方とか人を使い捨てにして大儲けしている人材派遣会社の社長とか、「国は俺にとって都合のいい人材を教育して俺のところに供給するのが当然だ」とビジネス誌で喚く居酒屋チェーンの社長を名乗るキチガイとか、そういう連中にとって恣意的に利用し易いのだ。というかもしも自分がそっちの立場だったら、梅田氏の言う「自助の精神」を徹底的に利用するだろう。
 時代は確かに変わっている。「知の高速道路」を利用して「好きを貫く」という生き方がかなり多くの人にとって可能になってきた。だがもう一方では「自助の精神」以前の問題として「生存の危機」にさらされる人も増えている。そこまで踏まえた上での「新時代の生き方」をどうするか、を考え体系づける言説が出てきてもいい(というか既にあるんだろう)。自分はそこに興味がある。
 梅田氏はそういうことには興味を持たないだろうし、優先順位を割り振ることも自身のリソースをつぎ込むこともないだろうなと思う。もちろん自分のリソースをどうつぎ込むかは本人が決めることなので、そのこと自体が良いとか悪いとかそういうことではない。
 あと、これは読む側の話だけど、この本に出てくる「オプティミズム」と思慮の無さをごっちゃにしているのが目について、なんなんだろうなと思う。この本を自分の都合のいいように解釈して「自分はオプティミストだから正しく、自分を批判する奴はオプティミストじゃないから間違っている」って本気で思いこんで(しかもそのことに対する自覚もない)他人を見下すような連中を見かけると本気で悲しくなる。

※2009/5/7追記:
 というかさ、「好きを貫いて生きる」ことだって甘くないんだよ。この本を読んだ人ならわかると思うけど。
 あと、上の方でこの本は『「生存の危機」が現実的に消えている人、あるいは当面は「生存の危機」が無い人向けの本』と書いたけど、もう一つある。梅田氏がこの本の中で「ウェブ進化論」の感想を下記のように紹介していた。

リアル社会の職業だけからは「大衆」層に分類されてしまうかもしれないし「エリート」になりたいわけではないが、自分の存在を知らしめたいという欲望がある。

「エリート」集団に属することはできなかったが、「大衆」の中に埋没するのも違和感がある。

 この本は、こういう人向けの本でもある。定石だが、なかなかいいところにターゲットを絞ったな、と思う。「エリート集団に属することはできなかった」人の「自分の存在を知らしめたいという欲望」に上手く入り込んでいる。

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赤木 智弘

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制度やシステムが個人の行動や選択肢を制限する

 子供の頃は主に学校で「努力して結果を出せば自分の選択肢が広がり自分の思うような道を進める」みたいなことを言われて育った。まあその言葉の怪しさはだんだんとわかってくるものだが、自分の場合、それを身をもって体験したのは高校受験の時だった。

 全国的に見れば少数だが、ある地域には「県内一の進学校が別学校」という環境が存在する。これが何を意味するかというと、「一定以上のレベルの大学に行きたいと思ったら共学校という環境を諦めざるをえない」ということだ。まあ小学生の頃から薄々と感づいてはいたが、それが切実なものになった時にはなかなか辛かった。もちろん、県内二の進学校に行って個人の頑張りで…という選択肢もあったのだが、そんな選択肢を選ぶのは少なくとも自分の周りには皆無であったし、過去の進学実績から見てその選択はなかなかチャレンジブルであったし、そもそも自分の周りにはそういう不満を持っているのがいなかった。

 結果的に「自分の意志で」「自分で決めて」別学校に行ってそこでぶーたれることになるのであるが、「自己決定」というものの欺瞞・胡散臭さを15歳そこそこで思い知らされて何とも言えない気分になるとともに、結局自分もその制度を維持するのに手を貸した一人だったのだなと気づいて何ともいえない気分になった。あと自分の部屋の障子の枠がボロボロになり部屋の壁には穴が空き、「努力して結果を出した報いがこれかよ、生まれた場所が違うだけでこの有様か。俺なにか悪いコトしたか?」とブツブツブツブツつぶやく生活を送ることになった。

 つまり、「表向きには選択肢がないことはないが、実質的な選択肢は非常に限られている、そしてそういう状況は再帰的に強化されている」ということだ。社会の制度・システムは時として非常に巧妙にできているということだ。こんなこと社会に出てから気づけばいいことだろ15歳くらいで気づくことじゃないだろ、と思ったことを覚えている。

 おかげで性格は歪み、周りからは呆れられたり今でもそれを引きずっていたりするのだが、ただ、こういう経緯をたどったおかげで「頑張れば頑張っただけ報われる(=おまえが報われないのはおまえの努力が足りないからだ。なんでもかんでも環境のせいにするな甘ったれるな!)」という、制度・システムの巧妙さから目を背けさせるような言説に対して疑問を持てるようになったわけだが………いや、疑問なんか持たないほうが幸福だったよな。

社会の中で生きるために必要なたった一つの心構え

#189 「家庭のしつけは衰えている」は本当か? 広田照幸 さん(東京大学大学院教授)

一人ひとりの個人は、社会との関係の中で生きている、ということを理解してほしい。働くことも生活することも遊ぶことも、あらゆることが、「社会」を抜きにして成り立っているわけではありません。今の社会のしくみをきちんと理解し、今ある社会に適応して、その中に自分の居場所を見つけていくという側面も必要です。同時に、今の社会のしくみをきちんと批判し、これからの社会を新しく作っていく主体になるという側面も、若い世代に求められています。私もこれからいっそう努力しますけれども、若い世代の人たちも、自分の身の回りだけとか自分だけの人生とかを考えるのではなく、どうか社会的な関心をもってほしいです。

 「社会」の中で生きていくということを考えてみたい。社会的な関心を持つためには、まずは自分の身の回り、自分の生活に根ざした部分から社会を考えた方がいいと思う。その方が真剣さが全然違う。最初は「自分の身の回りだけ」「自分だけの人生」を考えるところから始めればいいんじゃないか。

 生きている中で不満なこと理不尽なことがある。どうしてこんなことになっているのだろう?と考える。自分のことだから真剣に考える。そして、こういう状況の下で、自分の環境を快適に(少しでもマシに)するためにはどうすればいいか考える。
 自分の力で何とかなるかもしれない。社会構造的なもので自分にはどうにもできないかもしれない。それらの複合的なものかもしれない。大抵は白黒はっきりできるようなものではない。安易に結論づけず、徹底的に考えたい。
 確かに社会はおかしいかもしれないが、社会構造が変わるのを待っていられないということもある。当座の現実解としては、自力で何とかしたほうがいいという結論に達することもある。ただ、ここで気をつけてもらいたい。あなたが、理不尽な社会構造に対して「自力でなんとかして自分に快適な環境を手に入れた」とする。それは確かに素晴らしい。でもそれは誰にでもできることではない。そのことは忘れないでいただきたい。自力でなんとかなってそれなりの地位を築いた人がたまに「それが最適解だ!」と声高に言い出したりするが、それは視野狭窄であるか地位の上がった自身の保身であるか他人を都合のいいように動かしたいという欲望だと思っていい。
 それに関連してもう一つ。この手の人は「個人の力で世の中は変わらないんだから自力で頑張って人生のクオリティを高めたほうがいい」と得意気に語る。更に酷くなると「社会に不平不満を言うと霊的ステージが下がって不幸になるしそういう人に関わるとネガティブ菌が感染して自分の人生のクオリティが下がる」なんてことを言い出したりする。こういう人間の力を信じられない、卑屈に下を向いて生きることしかできない後ろ向きネガティブな人には注意しよう(もちろんそういう生き方をすることは否定しない。世の中には色々な生き方があるしそういう生き方をする自由はある)。
 この手の言説を広めようとする人にはその人の事情がある。自分にとって都合のいい社会の現状(そしてその現状はある種の人にとっては理不尽極まりなかったりする)に対して疑問を持たれたりそれを変えられたりしては困るのだ。たまに100%の善意と素でこの手の言説を信じ込んでいる人もいるが、まあ、世の中には個性に溢れた変わった人もいるってことで、自分の障害にならない限りはそっとしておいてあげよう。
 社会の現状が自分にとって都合のいい人は、他人が現状に不満を持たないことを望む。だから「社会に不平不満を言うと霊的ステージが下がって不幸になる」と吹いて廻る。そして不平不満が出ないことをもって「ほうら現状に不平不満なんて存在しないんだよ」と高らかに宣言するのだ。

 自分を、自分をとりまく環境を正確に把握して、徹底的に考えて行動しよう。そして、自分にできることができない他人がいるという可能性を忘れないようにしよう。

参考:http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20080125

学校に行かなくても死なない / 日本での生きにくさ

 学校(高校以前)に行かなくても死なないというのはその通りなんだけど、「学校に行かないようなヤツ」に対する視線というのがあって、例えば何の問題もなく大学の入学試験を通る能力、大学を卒業する能力があって実際そうやっても、「学校に行かないようなヤツ」に対するゲスな目線、あいつが転落したらここぞとばかりに騒いでやる、あいつは登校拒否児だったんだ引きこもりだったんだ、という目線というのはあって、そんなの気になんないよという人もいる一方でそういう目線にどこかでおびえている人もいるかもしれないなあ、なんてことをふと思った。
 これは「学校に行かない」に限らず、他にも色々なケースがある。「あいつはおかしなヤツだった」とかそういうのも含め。

自殺するなら、引きこもれ  問題だらけの学校から身を守る法 (光文社新書) 自殺するなら、引きこもれ 問題だらけの学校から身を守る法 (光文社新書)
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 なんてことを思いつつ、この本を読んだ。この本の中で、サラリーマン養成所のしての学校はもう時代にそぐわなくなっている、だけど人々の学校信仰は未だ根強く残っている、ということが書いてあった。
 まあ、そうだよなと思う。そして同時にメリットがあったりデメリットが特にないなら学校に行かない必要もない、とも書いてあった。結局そこらへんに落ち着くのかなと思う。まあ学校なんて自分のいいように利用すればいいんだし。
 今現在学校に通っている当事者が、こういうことを理解することが大事だとは思うけど、それやられると教員が困るだろうな。自分たちに都合の悪いことを知ってもらっちゃ困るし、平均的な教員の能力じゃそういうことを身につけた子供は手に負えないだろうし。せいぜい同業者内でのグチグチ話に花が咲くだけか(笑)。

 そして関連する話として、渡辺千賀氏のこのエントリ
 日本で生きにくさを感じたときに厄介なのは、地理的な障壁(海)と言語と地域学校家庭等で叩き込まれる日本社会の常識かなあと思う。これらの障壁は日本国内のある種の人にとってはとても都合が良く、人材の流出をそれなりに防ぐことが出来る。その障壁の強度は、日本の学校や日本社会の教育力(笑)にかなり依存している。
 障壁を乗り越えられる人は苦労して、あるいはあっさりと乗り越えてしまう。頭の良さとか行動力とか生命力とか金の力とか育ちの良さとかで。ただまあそれは誰にでもできるわけではない。できるかできないかのボーダーライン上にいる人を日本国内に押しとどめる力は、冒頭で言ったような障壁だ。ボーダーライン上にいる人で、かつ日本で生きにくさを感じている人にとってこの障壁は自分を閉じこめる檻であり、外に出ようとする自分を引き戻そうとする悪魔の手だ。

 話は少しそれて、このエントリで渡辺氏の子供時代について書かれていて、それを読んで思ったことを少々。
 まあ人間は自分の嫌な記憶は忘れるから、子供時代に戻りたいって感情は出てくるだろうね。ちょっと冷静に考えてみるとそれってすげえ嫌なことなんだけどね。自分の好きな人だけがいて自分にとって嫌なこと不快なことクソなシステムが一切無いなら戻ってもいいけど。
 私は偏見に毒されていて、小中学校の教員ってのは無能勘違い落ちこぼれがなる職業だと信じて疑わないという不治の病を患っている。実際に体験した小中学校時代を考えればそりゃ当然だろ、と今でも思っているのでなかなか深刻な病状である。
 私は「どうして教員ってこんなにバカなんだろ?」と思いながら義務教育期間の大半を過ごしたので、年齢を重ねるにつれて教員や学校社会に理解を示し寛容になっていく同郷のかつての問題児や、教員や学校の理不尽さに涙していたかつての同級生今は小学校の教員、なんて話を聞くとなんとも言えない気分になる。
 学校で受けた教育がよく身についたいい子ちゃん、ってこういう人たちのことなんだなあと思う。昔は私が一番いい子ちゃんだったんだと思っていたんだけどなあ。

閉塞感とか生きることとか

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 田舎社会の、あるいは日本社会の閉塞感なんてことが色々なところで語られ、自分もたまに語ったり考えたりする。
 昔は自分の社会が閉塞的であるとか考えていなかったように記憶している。色々と嫌なこと辛いことはあったけど、それを地域社会の閉塞感に結びつけるようなことはなかった。色々なことをよくわかってなかったし余所の地域のことなんて知らなかったし、閉塞的って概念が無かったんだと思う。
 今は、田舎社会の閉塞感がどうだとかそんなことを思うようになっている。それは田舎以外の社会状況等色々なことを知って、ものの見え方が変わったからなのかもしれない。別に閉塞感を知らないままに田舎で十分に生きていけたのかもしれない。

 自分が生きることについても、先のことは何もわかんないし常にうすぼんやりとした不安や希望がある。良くない方向には未来が確定しているように見えてしまい、良い方向に希望を持つことは結構難しい。

 人生を前向きにがんばろう!とかそういう紋切り型の物言いに対しては冷ややかな感情が湧き出てくるし、実際胡散臭いヤツらが他人を食い物にするためにそういう言葉を囁きかけてくるのであるが、そういった紋切り型の物言いってのはそれはそれで立派に存在価値があるんだなあ、ということを思うようになってきた。そう思わなければやってられない、ってのもあるのかもしれないが。

 まあ世の中って色々生きづらい要素はあるし、人生の不安についても尽きることがないよね、ということに対して登場人物たちが悩み苦しみ行動して、生きるってなんなんだろうね、ということに関して登場人物の口から色々なことが語られ、色々とあがき動き回る。ああ「青春小説」だなあ。