WordPressを2.7日本語版から2.7.1日本語版へ変更&トラブル対応

 ふと気づいたら、数日前(前回更新の2009/2/7以降のどこか)からワードプレスの管理画面(ダッシュボード)に入れなくなっていた。ログイン画面はURLを直指定で表示されるんだけど、ユーザ名とパスワードを入力しても真っ白な画面(Firefoxの場合)が出るだけで管理画面が表示されない。
 FTPでプラグインファイルを消してみても状況は変わらず。で、ワードプレスの最新版がリリースされたのでアップグレードすればなんとかなるかもと思い(というかそれくらいしかできることがないように思えた)やってみた。

WordPress 2.7.1 日本語版リリースのお知らせ。今回やったことは下記の通り。

  • FTPでWPファイルをローカルにバックアップ
  • 旧版は消さずに最新版を上書き
  • WPアップグレードのURLを直指定。「お使いのDBは既に最新のものです」という旨のメッセージが出る。続いて「続行」ボタンを押す
  • ダッシュボードが表示された。よかった!
  • プラグインフォルダを消していたので、ローカルのバックアップからファイルを転送してその後プラグインを有効化。必要ならプラグインを最新版に更新。プラグインを管理画面から自動アップデートするときはSSLを使わないこと。

※2009/3/22追記:ダッシュボード白紙トラブルに関しての参考情報。構成ファイルの文字コードや内容が変わっている?という話か?

12周年

 サイトを始めて12年経った。始めた頃から比べて、自分をとりまく環境は随分変わったし、自分自身も変わった。考え方や意見が変わったところも(変わらないところも)ある。
 そういえば、過去のhtmlで書いていた頃のテキストは現在アップロードされていない。WordPressにシステムを乗り換えたときに消したっきりになっている。SOS事件のコンテンツはWordPress上に移行したんだけど、その他のコンテンツは力尽きて未だに移行していない。
 昔も今もネットを見るときは、自分にとって面白いもの楽しいものを見るのが目的になっている。最近思うのが、気がついたらいつの間にか「キャリア教育の成果」みたいな記事がたくさん目につくようになってきたということだ。ブログ人口の増加とか、世相とかを示しているんだろう。

 これからも更新しているんだかしていないんだかわからないようなペースでここは続くんだろうと思う。今は独自ドメインでやっているけど、このドメインは一年毎に更新(料金はコンビニで支払い)しているので、もし私が死んだら更新手続きが行われずに自動的に消えるのだろう。まだ死ぬ予定はないけど。
 面白いものが読めて自分が何かを考えて、人との交流があるかぎりここは続くと思うよ。あ、人との交流はなくなっても続くかな。むしろ更新頻度が増えたりして。

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社会の中で生きるために必要なたった一つの心構え

#189 「家庭のしつけは衰えている」は本当か? 広田照幸 さん(東京大学大学院教授)

一人ひとりの個人は、社会との関係の中で生きている、ということを理解してほしい。働くことも生活することも遊ぶことも、あらゆることが、「社会」を抜きにして成り立っているわけではありません。今の社会のしくみをきちんと理解し、今ある社会に適応して、その中に自分の居場所を見つけていくという側面も必要です。同時に、今の社会のしくみをきちんと批判し、これからの社会を新しく作っていく主体になるという側面も、若い世代に求められています。私もこれからいっそう努力しますけれども、若い世代の人たちも、自分の身の回りだけとか自分だけの人生とかを考えるのではなく、どうか社会的な関心をもってほしいです。

 「社会」の中で生きていくということを考えてみたい。社会的な関心を持つためには、まずは自分の身の回り、自分の生活に根ざした部分から社会を考えた方がいいと思う。その方が真剣さが全然違う。最初は「自分の身の回りだけ」「自分だけの人生」を考えるところから始めればいいんじゃないか。

 生きている中で不満なこと理不尽なことがある。どうしてこんなことになっているのだろう?と考える。自分のことだから真剣に考える。そして、こういう状況の下で、自分の環境を快適に(少しでもマシに)するためにはどうすればいいか考える。
 自分の力で何とかなるかもしれない。社会構造的なもので自分にはどうにもできないかもしれない。それらの複合的なものかもしれない。大抵は白黒はっきりできるようなものではない。安易に結論づけず、徹底的に考えたい。
 確かに社会はおかしいかもしれないが、社会構造が変わるのを待っていられないということもある。当座の現実解としては、自力で何とかしたほうがいいという結論に達することもある。ただ、ここで気をつけてもらいたい。あなたが、理不尽な社会構造に対して「自力でなんとかして自分に快適な環境を手に入れた」とする。それは確かに素晴らしい。でもそれは誰にでもできることではない。そのことは忘れないでいただきたい。自力でなんとかなってそれなりの地位を築いた人がたまに「それが最適解だ!」と声高に言い出したりするが、それは視野狭窄であるか地位の上がった自身の保身であるか他人を都合のいいように動かしたいという欲望だと思っていい。
 それに関連してもう一つ。この手の人は「個人の力で世の中は変わらないんだから自力で頑張って人生のクオリティを高めたほうがいい」と得意気に語る。更に酷くなると「社会に不平不満を言うと霊的ステージが下がって不幸になるしそういう人に関わるとネガティブ菌が感染して自分の人生のクオリティが下がる」なんてことを言い出したりする。こういう人間の力を信じられない、卑屈に下を向いて生きることしかできない後ろ向きネガティブな人には注意しよう(もちろんそういう生き方をすることは否定しない。世の中には色々な生き方があるしそういう生き方をする自由はある)。
 この手の言説を広めようとする人にはその人の事情がある。自分にとって都合のいい社会の現状(そしてその現状はある種の人にとっては理不尽極まりなかったりする)に対して疑問を持たれたりそれを変えられたりしては困るのだ。たまに100%の善意と素でこの手の言説を信じ込んでいる人もいるが、まあ、世の中には個性に溢れた変わった人もいるってことで、自分の障害にならない限りはそっとしておいてあげよう。
 社会の現状が自分にとって都合のいい人は、他人が現状に不満を持たないことを望む。だから「社会に不平不満を言うと霊的ステージが下がって不幸になる」と吹いて廻る。そして不平不満が出ないことをもって「ほうら現状に不平不満なんて存在しないんだよ」と高らかに宣言するのだ。

 自分を、自分をとりまく環境を正確に把握して、徹底的に考えて行動しよう。そして、自分にできることができない他人がいるという可能性を忘れないようにしよう。

参考:http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20080125

学校に行かなくても死なない / 日本での生きにくさ

 学校(高校以前)に行かなくても死なないというのはその通りなんだけど、「学校に行かないようなヤツ」に対する視線というのがあって、例えば何の問題もなく大学の入学試験を通る能力、大学を卒業する能力があって実際そうやっても、「学校に行かないようなヤツ」に対するゲスな目線、あいつが転落したらここぞとばかりに騒いでやる、あいつは登校拒否児だったんだ引きこもりだったんだ、という目線というのはあって、そんなの気になんないよという人もいる一方でそういう目線にどこかでおびえている人もいるかもしれないなあ、なんてことをふと思った。
 これは「学校に行かない」に限らず、他にも色々なケースがある。「あいつはおかしなヤツだった」とかそういうのも含め。

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 なんてことを思いつつ、この本を読んだ。この本の中で、サラリーマン養成所のしての学校はもう時代にそぐわなくなっている、だけど人々の学校信仰は未だ根強く残っている、ということが書いてあった。
 まあ、そうだよなと思う。そして同時にメリットがあったりデメリットが特にないなら学校に行かない必要もない、とも書いてあった。結局そこらへんに落ち着くのかなと思う。まあ学校なんて自分のいいように利用すればいいんだし。
 今現在学校に通っている当事者が、こういうことを理解することが大事だとは思うけど、それやられると教員が困るだろうな。自分たちに都合の悪いことを知ってもらっちゃ困るし、平均的な教員の能力じゃそういうことを身につけた子供は手に負えないだろうし。せいぜい同業者内でのグチグチ話に花が咲くだけか(笑)。

 そして関連する話として、渡辺千賀氏のこのエントリ
 日本で生きにくさを感じたときに厄介なのは、地理的な障壁(海)と言語と地域学校家庭等で叩き込まれる日本社会の常識かなあと思う。これらの障壁は日本国内のある種の人にとってはとても都合が良く、人材の流出をそれなりに防ぐことが出来る。その障壁の強度は、日本の学校や日本社会の教育力(笑)にかなり依存している。
 障壁を乗り越えられる人は苦労して、あるいはあっさりと乗り越えてしまう。頭の良さとか行動力とか生命力とか金の力とか育ちの良さとかで。ただまあそれは誰にでもできるわけではない。できるかできないかのボーダーライン上にいる人を日本国内に押しとどめる力は、冒頭で言ったような障壁だ。ボーダーライン上にいる人で、かつ日本で生きにくさを感じている人にとってこの障壁は自分を閉じこめる檻であり、外に出ようとする自分を引き戻そうとする悪魔の手だ。

 話は少しそれて、このエントリで渡辺氏の子供時代について書かれていて、それを読んで思ったことを少々。
 まあ人間は自分の嫌な記憶は忘れるから、子供時代に戻りたいって感情は出てくるだろうね。ちょっと冷静に考えてみるとそれってすげえ嫌なことなんだけどね。自分の好きな人だけがいて自分にとって嫌なこと不快なことクソなシステムが一切無いなら戻ってもいいけど。
 私は偏見に毒されていて、小中学校の教員ってのは無能勘違い落ちこぼれがなる職業だと信じて疑わないという不治の病を患っている。実際に体験した小中学校時代を考えればそりゃ当然だろ、と今でも思っているのでなかなか深刻な病状である。
 私は「どうして教員ってこんなにバカなんだろ?」と思いながら義務教育期間の大半を過ごしたので、年齢を重ねるにつれて教員や学校社会に理解を示し寛容になっていく同郷のかつての問題児や、教員や学校の理不尽さに涙していたかつての同級生今は小学校の教員、なんて話を聞くとなんとも言えない気分になる。
 学校で受けた教育がよく身についたいい子ちゃん、ってこういう人たちのことなんだなあと思う。昔は私が一番いい子ちゃんだったんだと思っていたんだけどなあ。

iPod touch / iPhoneのカレンダとGoogleカレンダを同期する方法

 Mac環境だと他にもやり方があるらしいですが、そっちは知らないので他の方法を。

1.NuevaSyncを使う
 ※NuevaSyncが無料で使えたのは2010/11/24までなので注意。
 NuevaSyncというサービスで、カレンダの同期ができる。NuevaSyncにGoogleカレンダのパスワードを入力することになるのでそこは考えたうえでの利用を。
 NuevaSyncの設定については下記のリンクを参照。
http://yamashita.dyndns.org/blog/iphone-google-calendar-nuevasync/
http://kengo.preston-net.com/archives/003864.shtml

2.さいすけ for iPhoneを使う
 iPod touch / iPhone付属のカレンダとの同期はできないけど、このアプリとGoogleカレンダを同期できる。無料版(機能制限付)と有料版があるのでまずは無料版から試してみては。
http://www.anzuu.com/2008/11/16_1282.html
http://jp.blogherald.com/2008/10/15/must-have-bloggeriphone-app-saisuke-for-google-calendar/

WordPress for iPhone から投稿

投稿テスト。

追記:
 ちょっと前にWordPress for iPhone(FAQ)を試してみたのだが、設定画面で警告が出てセッティングができなかった。WordPressの設定画面で「WordPress、 Movable Type、 MetaWeblog および Blogger XML-RPC 投稿プロトコルを有効にする」にチェックを入れているのに。
 訳がわからなくてしばらく放置していて、今日またふと思い立ってちょっと検索してみたら似たような状況にある人を発見。で、これを元に自分の状況がどうかチェックしてみた。

 私の場合、生成したページのソースにあるべき記述はあった。なのでデフォルトのテーマにしてWordPress for iPhoneの設定をしてみたらあっさり設定ができた。なんじゃそれ。そしてその後テーマをwp.Vicuna 1.5.7に戻した上でWordPress for iPhoneから投稿をしてみたら正常に投稿された。
 Vicunaに原因があるのか?と思ったが具体的にどこに原因があるのかはわからない。

手帳を買う

 来年(2009年)用の手帳として、「超」整理手帳を購入した。「超」整理手帳は2006年から使っているのだが、実は最近はほとんど使っていない。というか2008年分には今のところ何も書き込んでいない。
 自分の場合、webサービス上にあるカレンダで大抵のことは足りてしまう。システムにアクセスできない環境にいるときにはカレンダが参照できなくて困ることもあるが、頻度で言ったらほとんどない。極端な話、そういう時の対策は紙の切れ端にメモしておけば充分だったりする。もちろん、手帳を常に手元に置き、適宜予定をシステムに記録すると同時に手帳にもメモしておけば完璧というか安心できるというのはあるけど、面倒なこともあってすっかりそういうこともしなくなった。
 ただ、手帳の使用機会が完全になくなったかといえば、そういうこともないんだろうな。スケジュール管理はしなくても、単なるメモや落書き帳としての手帳の利用機会はやっぱりあると思う(ここ一年以上やっていないわけだけど)。ふと思ったことやここで金をいくら使ったとかの一時的なメモとして。
 ただの一時的なメモ用途であれば、「超」整理手帳でなくともいいんだけど、ただ「超」整理手帳はA4サイズの紙を折り曲げて収納するのに適していて、これが自分には結構便利なので今後もしばらくは「超」整理手帳を買うのだろうなと思う。
 「超」整理手帳は今年はスケジュール帳としては使っていないのだが、夏の台湾旅行では重宝した。事前に調べたことや緊急連絡先一覧や買い物メモをA4の紙に印刷して折り曲げて収納して持っていった。また、todo listやidea memoは現地での支出メモや記録メモ、筆談ツールとして利用した。

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閉塞感とか生きることとか

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 田舎社会の、あるいは日本社会の閉塞感なんてことが色々なところで語られ、自分もたまに語ったり考えたりする。
 昔は自分の社会が閉塞的であるとか考えていなかったように記憶している。色々と嫌なこと辛いことはあったけど、それを地域社会の閉塞感に結びつけるようなことはなかった。色々なことをよくわかってなかったし余所の地域のことなんて知らなかったし、閉塞的って概念が無かったんだと思う。
 今は、田舎社会の閉塞感がどうだとかそんなことを思うようになっている。それは田舎以外の社会状況等色々なことを知って、ものの見え方が変わったからなのかもしれない。別に閉塞感を知らないままに田舎で十分に生きていけたのかもしれない。

 自分が生きることについても、先のことは何もわかんないし常にうすぼんやりとした不安や希望がある。良くない方向には未来が確定しているように見えてしまい、良い方向に希望を持つことは結構難しい。

 人生を前向きにがんばろう!とかそういう紋切り型の物言いに対しては冷ややかな感情が湧き出てくるし、実際胡散臭いヤツらが他人を食い物にするためにそういう言葉を囁きかけてくるのであるが、そういった紋切り型の物言いってのはそれはそれで立派に存在価値があるんだなあ、ということを思うようになってきた。そう思わなければやってられない、ってのもあるのかもしれないが。

 まあ世の中って色々生きづらい要素はあるし、人生の不安についても尽きることがないよね、ということに対して登場人物たちが悩み苦しみ行動して、生きるってなんなんだろうね、ということに関して登場人物の口から色々なことが語られ、色々とあがき動き回る。ああ「青春小説」だなあ。